新老楼快悔 第156話 戊辰戦争を戦った人たちの年齢

新老楼快悔 第156話 戊辰戦争を戦った人たちの年齢


 歴史物の作品を書くことが多いので、時折、その登場人物は何歳だったのか、という思いにかられる。死を賭けた行動ゆえに、おののきを感じるからなのかもしれない。
 白虎隊は会津藩が組織した一六歳から一七歳までの少年たちで、集団自決に走った士中二番隊の面々だ。戦火を逃れて飯盛山腹まで辿り着くが、雨が降りしきる中、眼下に望む鶴ヶ城は燃えていると見誤ってしまう。絶望した少年たちは、集団自決に走り、一九人が死んだが、飯沼貞吉一人だけ助かり、その話から凄惨な自決の模様が明らかになる。
 飯沼は一五歳だったが、年齢を一歳多く偽って戦闘に参加していた。飯沼はその後、貞雄と名を改め、郵政省に入り、電信電話の普及に尽くす。情報伝達の重要性を身を以て感じたということなのかもしれない。
 箱館戦争の戦火をもろに被ったのが松前藩だ。藩主徳広は病身のため、老臣が政務を補佐していたが、正義隊が主導権を握るなど内紛が起こった。そんな中、榎本武揚率いる脱走軍が蝦夷地へ押し入り、土方歳三軍が松前を襲撃したので、城下は火炎に包まれた。藩主松前徳広は船で奥羽に逃れた挙げ句、病死。だが家臣らは幕府の咎めを恐れて遺書を偽造し、自刃とした。二五歳。藩主に責任を負わせてお家を守ったのである。
 箱館戦争でもっとも壮絶な死は、土方歳三とそれに中島三郎助親子の死だ。
 土方はこの戦いで死ぬ覚悟をしていたとされる。官軍の箱館総攻撃の日、軍議の席で「箱館奪還の戦いを拙者に任せてほしい」と述べ、額兵隊、伝習士官隊の一個分隊を率いて出陣。一本木関門の戦いで弾丸を受けて死んだ。日頃から「我輩は死に遅れた。地下の近藤に済まない」と口癖のように言っていたといい、自ら死を求めた出陣だった。三五歳。
 中島三郎助、長男恒太郎、次男英次郎の親子三人は、浦賀勢とともに千代ヶ岡台場に布陣した。榎本武揚は中島家が途絶えるのを恐れ、恒太郎だけでも五稜郭へ移そうとしたが拒絶。攻め込んできた敵勢と敢然と戦い、死んでいった。三郎助四九歳、恒太郎二二歳、英次郎一九歳。中島家のすべてを徳川に捧げきった壮絶な戦死だった。
 その夜、榎本武揚は腹を切ろうとして留められ、降伏を決意する。三四歳。敵将黒田清隆に救われ、以後、樺太千島交換条約など数々の外交の矢面に決然として立つ。
 死を覚悟して死んでいった人たちの年齢はいずれも若い。人生五〇年、命を捨ててまで尽くそうとする行為が、時代を経てなお燦然として輝くのは、そこに揺るがぬ信念を見るからであろう、と思う。



2024年8月23日


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