新老楼快悔 第151話 毒婦おでんの処刑検視人が月形に

新老楼快悔 第151話 毒婦おでんの処刑検視人が月形に


 札幌から岩見沢を経て旭川へ連なる国道12号線。北海道を横断するこの主要道路の原形を作ったのが樺戸(月形町)、空知(三笠市)両集治監の受刑者たちだったと言ったら、驚く方が多かろう。しかもその指揮者がかつて“毒婦おでん”の処刑に立ち合った検視役だったとは…。
 明治18年(1885)、樺戸集治監の初代典獄(刑務所長)月形潔が去り、二代目典獄として着任したのが剛毅で鳴る元長州藩士の安村治孝だった。受刑者たちはその名を聞いただけで震え上がったという。



 安村がその名をはせたのは明治10年(1877)の西南戦争。新撰旅団第2大隊第4中隊長として出陣し、城山の戦いで敵の総大将、西郷隆盛を捕虜にしようと組み打ち。西郷は危うく逃れるが、敗色濃厚となり、自刃した。
 安村はその後、東京・市ヶ谷監獄で大警部囚獄署長となり、高橋おでんの処刑に立ち合った。三人の官吏に抑えられたおでんが、「せめてあの人に一目会ってから死にたい」と言い出した。「わかった」と答えておいて、首斬り役の山田朝右衛門がやにわに刀を構えたので、おでんが「さては偽ったか」と騒ぎだした。朝右衛門がどうしたものかと安村を見ると、安村は「構わぬ、討て」と目で合図した。
 朝右衛門は刀を振り下ろしたが、手元が狂って斬りそこねた。血まみれになったおでんは愛人の名を呼びながらのたうち回り、ついに首をはねられた。安村はそれを見届けると、顔色一つ変えずその場を立ち去ったという。
 安村はその後、宮城集治監の典獄を経て樺戸へきた。翌年春から樺戸、空知両集治監による上川道路(現在の国道12号のうち滝川―旭川間、95キロ)の建設工事が始まった。安村は受刑者に満足な食べ物も与えず、赤い着物を着せ、朝早くから夜遅くまで牛馬の如く使役して工事を進めた。腰を下ろしただけで「怠けている」とこん棒が飛んだ。病気になっても治療など施せず、死んだら作業現場の道端脇に捨てた。同僚たちが見かねて、穴を掘って埋めた。罪人など働かせて命を落としても、養うより得策とした明治新政府の熾烈な方針によるものだった。
 道路が完成したのは明治22年(1889)。だが、この間に亡くなった受刑者は膨大な数に及んだ。まさに受刑者の汗と涙で築かれた道路といえる。
 砂川市空知太に「上川道路開墾の碑」が往時を偲ばせて建っている。




2024年7月19日


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