新老楼快悔 第150話 外国船をユーカラで伝えたアイヌ女性

新老楼快悔 第150話 外国船をユーカラで伝えたアイヌ女性


 歴史を紐解くと時々、驚くような話が出てくる。寛政8年(1796)8月15日、東蝦夷地アブタ沖に異国船が現われて、大騒ぎになった様子を、アイヌ女性がユーカラ(叙事詩)で現代まで伝えていたのを知った。文字を持たない民族ならではの叡智にただただ感嘆している。
 この船はプロートン船長率いるイギリスの探検船プロビデンス号(乗組員110人)で、南米を経由してオーストラリア、さらにタヒチからハワイ諸島をめぐりバンクーバーを経て北太平洋を渡り、日本海域に達し、虻田沖までやってきたのだった。
 船体を目撃した虻田のアイヌの人々の対応の模様を詠んだもので、ユーカラの伝承者は虻田町に住む遠島タネランテという女性。『虻田町史』(昭和37年刊)に意訳文(意訳者、更科源蔵=故人)が掲載されているので。長文だが、省略して掲げる。

 ――突然、赤人船が虻田沖に現われ、陸地では戦争になると騒ぎだした。村の者が船に毒矢(シルクアイ)を向けると、赤いちぢれた髪の上に烏(パシクル)の嘴(パシ)のような飾り(帽子)をつけた連中が、船上で手をすり合わせて泣いているのが見えた。
 小舟に乗って波打ち際に着いた男は、酋長の前に来て身振り手振りで泣きながら「どこへ行っても水がもらえず、何日も飲まず食わず。米でも菓子でも酒でも沢山やるから、どうか水と交換してくれ」と言った。
 酋長は、舟の頭と会ってみなければわからないと、5、6人の仲間を連れて沖の船に行ったが、言葉が通じない。日本人の通詞が、水がほしいと言っている、水と米や酒や菓子や布と取り替えたら、それでいいという。
 舟が2、3艘やって来て、酒だの菓子だのを浜に山積みにしたので、仲間にも手伝わせて水を汲んで与えた。喜んだ外国船はオタモイの岬をかわして下の方へ姿を消した。
 酋長は浜に積まれた米だの菓子だのを家の前に運ばせ、働けない年寄りたちに多く分けてやり、自分の家に分けてもらった米と麹で酒をつくり、木幣(いなう)を供えて四方にカムイノミをして、皆で楽しく飲み、歌い、踊ったりした。

 以上の文章の最後に「こういうことは初めてだからユーカラにつくつたのだ」――と結んでいる。
 ユーカラを詠んだ遠島タネランテさんはこの時、73歳というから、明治22年(1889)生まれ。物心がつくころ、母なり祖母なりから教えられた遠い昔の外国船騒ぎのユーカラを、明治、大正、そして昭和へと伝えてきたことになる。かつて文字を持たなかった民族が伝承文化として残した、極めて貴重な一文と思い、紹介した。


2024年7月12日


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