新老楼快悔 第139話 “世界の笠谷”が亡くなった……

新老楼快悔 第139話 “世界の笠谷”が亡くなった……


 “世界の笠谷”が亡くなった……。テレビが報じるニュースに、全身から力が抜けていくような不思議な感じに襲われた。あの“世界の笠谷”が亡くなるなんて……。
 笠谷さんと電話で会話を交わしたのは2005年秋だから、もう20年ほども前になる。文庫本『昭和史の闇 一九六〇-八〇年代 現場検証』(新風舎刊)に、その時代の犯罪を20件ほど取り上げた時、明るいニュースも入れようということになり、選んだのがわが国で初めて開催された「札幌冬季五輪・スキー70メートル級ジャンプ、メダル独占」。
 実はこの70メートル級の成績が上々だっただけに、この後に行われる90メートル級への期待が高まっていた。にもかかわらず結果は笠谷が7位と振るわず、日本勢は惨敗を喫した。
 なぜ負けたのか。その問いに対する笠谷さんの言葉が、あまりに印象的だったのを覚えている。
「実力がなかったということでしょう。しょせんは自然との闘い、自然には勝てないということです。自然に勝てなければ人間にも勝てない、そういう世界なのです」
 その言葉に一瞬、修行僧に共通するものを感じて、息を呑んだものだった。
 笠谷さんは後志管内仁木町出身。兄の影響で小学二年生から本格的にスキー・ジャンプ競技を始めた。余市高校一年だった一九六〇年の全日本選手権で最長不倒を飛んで頭角を現し、明治大を経てニッカウヰスキーに入り、日本のエースとして活躍した。柔軟で強靭な足腰を生かした鋭い踏み切り、着地で両足を前後させるテレマーク姿勢は抜群の美しさと讃えられた。
 圧巻は前述の札幌冬季五輪・スキー70メートル級ジャンプ。一回目に84メートルの最長不倒をマークし、二回目に79メートルを飛んで優勝。2位に金野昭次選手、3位に青地清二選手(ともに故人)が入り、表彰式では日の丸3本が札幌の空高く掲げられ、詰めかけた人々は“日の丸飛行隊”の快挙に心地よく酔いしれた。
 笠谷さんは一九七六年に引退し、以後はコーチとして後進の育成、指導に励んだほか、国際飛型審判員などとして長野五輪など多くの国際大会に関わった。全日本スキー連盟の職務を退いた後は、闘病生活が続いていたという。
 病と闘いながら往った笠谷さん。私たちに、大きな夢を、希望を、ありがとう!




2024年4月26日


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