新老楼快悔 第132話 もし、北海道がなかったら

新老楼快悔 第132話 もし、北海道がなかったら


 旧幕府体制から天皇政権に替わる“時代の節目”の中で、北海道の歴史を見ると、不思議な思いにかられる。あの時もし北海道がなかったら、わが国はどうなっていたのか。
 一番衝撃的なのは榎本武揚率いる旧幕脱走軍の蝦夷地侵攻だ。五稜郭を奪い、蝦夷島臨時政権を樹立するが、新政府軍の反撃に遭い降伏する。この日が明治2年5月18日。これを待って天皇政権は早々に動きだす。翌19日、青森にいた清水谷公考総督が箱館に移り、平定の祝砲を放つと、21日に上局会議、22日に下局会議を開き、政府の方針として、皇道の興隆、蝦夷地開拓の2件が決まった。
 皇道の興隆は天皇が政治の表舞台に立つのだから当然として、次に蝦夷地開拓を掲げたのは何を意味するのか。理由はそれまで曖昧な存在だった蝦夷地を日本国に組み込み、名を北海道と改め、そのうえで難題とされた戊辰戦争の朝敵、東北諸藩の藩士らに、天皇の名において北海道の未開地を与え開拓させる、という妙案を生み出したのだ。
 この時、先住民族であるアイヌ民族に示した天皇の言葉が残っている。大要を述べると「これまで政権を武士に預けていたが、これよりは天皇が治める。アイヌの人たちの暮らしもきちんと守る」というもの。だがアイヌ民族がそれをどこまで理解していたのか。
 こうして天皇政権は、どこの国のものとも判然としない宙ぶらりんだった蝦夷地をわが国に組み込み、天皇の名において東北諸藩の武士団に新天地となる未開地をわけ与えた。伊達市の開拓などはその典型的なものといえる。
 その一方で、元藩主や公家などに膨大な北海道の未開地をただ同然に与えて開拓を促した。元藩主らはさまざまな方法で開拓者を現地へ送り込んだ。開拓使、それに続く三県、そして北海道庁も、好条件を示して移住、開墾を奨励したので、暮らしに困惑していた大勢の人々が相次いで入植した。道内各地に県名を名乗る集落が存在するのは、故郷を背負って開拓に取り組んだ人たちの“涙の足跡”ともいえる。
 屯田兵組織は国土防衛と北海道開拓を目的にしたもので、最初に誕生したのが札幌の琴似屯田。兵は会津藩出の人が多かった。以後、屯田兵村は各地に設置されていく。
 明治維新という歴史を振り返ると、もし北海道がなかったら、わが国はどうなっていたのかという思いにかられる。こんな手つかずの島があったからこそ、多くの“賊徒”たちが処遇できた。その陰で先住民族であるアイヌ民族の存在を蔑視する行政が続いた……。
 それが北海道の正体だったのかと、へそ曲がりな感情がまた頭をもたげてくる。


2024年3月8日


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