新老楼快悔 第128話 原子修さん、さようなら
詩人の原子修さんが亡くなったと、北海道龍馬会の村田拓一代表から連絡が入った。身内だけで葬儀をするという。しばらく会っていなかっただけに、突然の訃報に絶句した。
原子さんは私より一歳年長の九一歳。詩人として数々の功績を残された方だが、私にとっては不思議な縁で繋がった同志ともいうべき存在だった。
出会いは原子さんが札幌市教育委員会に勤めていた昭和53年だから半世紀近くも前。その後、原子さんは退職して札幌大学教授になったが、なぜか私も退職して同じ大学の講師を仰せつかり、学内で時々出会うようになった。そんなことで何かと理由をつけて、盃を酌み交わした。
平成一〇年、北海道龍馬会の設立に関わり、会長を誰にしようという話になり、原子さんにお願いして無理に引き受けてもらい、私が支える役についた。以来、原子さんは“龍馬会の顔”として長い間、務めてもらうことになる。
毎年、総会、記念講演会、バスツアーなどを催してきたが、一番心に残っているのは歴史上の人物の末裔との交流。総会の記念講演に龍馬家本家をはじめ、勝海舟、榎本武揚、ジョン万次郎などの末裔を次々に招いた。そのたびに原子さんは会の代表として対応した。その陰にはなみなみならぬご苦労があったろうに、それを口にすることはなかった。
手元にある『北海道龍馬会の活動記録~龍馬と共に二〇年の歩み』を眺めると、ともに歩んだ往時が蘇ってくる。
「坂本龍馬激動の青春を訪ねて」(三泊四日)、「箱館戦争ゆかりの史跡めぐり」(一泊二日)のほか、日帰りの「榎本武揚縁の地を訪ねる」「人間登場・監獄と北海道開拓の旅」「咸臨丸と道南歴史探訪の旅」「札幌銅像めぐり」……など毎年二、三回のツアーを催した。原子さんはほとんど参加しなかったが、出発時には必ず顔を出し、笑顔で見送ってくれた。
この反面、言い出しっぺの私は、突然の交通事故に遭遇し、体調を崩して途中で脱会する羽目に陥った。申し訳ない思いがいまも残る。
先年、ある会合で偶然、顔を合わせたが、挨拶程度で、「そのうちに会おう」と約束した。「君に言われて龍馬会をここまで引っ張ってきた。後は若い者に任せるつもりだ」とでも言いたかったのかもしれない。
それにしても人生とは無惨なものだ。生と死の間に厳然として横たわる目に見えない遮断壁。もう会えないと思うと、辛さが胸に這いのぼってきて、たまらなくなってしまう。
2024年2月19日
老楼快悔
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