新老楼快悔 第127話 映画「大地の侍」の教え
北海道巡回プロジェクトによる「大地の侍」を観る機会を得た。制作年は1956年というから67年も前の作品である。
この映画は新聞社に入社し、帯広支社勤務になって間もなく観た記憶がある。本庄睦男の小説『石狩川』が原作だから、内容は承知しているが、映画がどんな展開だったかは覚えていない。ただ大友柳太朗主演の、しかも当時はまだ珍しい総天然色というので、心を昂らせたものだ。
だから今回の上映当日は、まるで昔の友人にでも会うような気持で会場へ向かった。少し早めのつもりだったのに、すでに満席の状態で、古い映画でもこんなに観客が集まるのか、と感心しながら席に着いた。
映画の展開をかいつまんで述べると、戊辰戦争で敗れ、賊軍とされた仙台藩岩出山領の領主、家老は、生きるため武士を捨てて農民となろうと決意し、家臣団とその家族を率いて北海道に新天地を求めて入植する。だがそこは不毛の地で、やむなく石狩川沿いの未開の荒野に入り、困窮と屈辱に耐えながら、開墾に立ち向かっていく。
映画を観ながら、胸を揺さぶられるような感動を覚えた。若い頃に見た時は、開拓期に入植した武士たちが泥まみれになって働く、道内のどこにでもある話……、といった程度だったが、いま見る作品は、ずしりと重い課題を真正面から突き付けてきた――、そんな印象なのだ。自らを恥じながら、歳を重ねるという意味の大切さを痛感させられた。
実は、本にも似たようなことが言える。3、40年も前に書いた自分の作品がひどく幼稚に感じたり、反面、おやっ、これは本当に自分が書いたのか、と思ったりする。
作品というものは、作者がその時、その年代に書いたものだから、そんな感覚になるのは当然として、読者にしたらどうだろう。本を手にした時が初見だから、著者の感覚とは違う。過日、読者の方から電話が入り、30年前に書いた拙著の内容を尋ねられて即答できず、「自分が書いたのにわからないとは」と呆れられた。だが、このズレは埋めることができない。
映画にしろ本にしろ、作品をつくるには、その制作意図がはっきりしていなければ、観る人、読む人の心に伝えることはできない。映画「大地の侍」は制作から6、70年を経てなお、観る者の肺腑をえぐるものを持っている。今後、自著のことで質問されたら、きちんと応対しなくてはなるまい。そう思いつつ、書棚に並んだ我が分身たちを眺めていたら、映画のシーンがまた蘇ってきて、胸がドキンと音をたてた。
2024年2月16日
老楼快悔
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