新老楼快悔 第122話 新年を迎え、九〇歳になった!
新年を迎え、九〇歳になった。昭和九年(1934)一月五日生まれ。よく生きたなあ、というのがいまの実感である。
九〇年間に何があったのか、と考えてみた。物心ついた頃、わが国は支那(中国)と戦争をしていた。小学校に入学してから戦地の兵隊さんを励まそうと、何度も便りを書き、絵画を描いて、慰問袋に入れて送った。
洟垂れ小僧のような友人Y君と真面目に将来について話した時、
「おれ、絶対に陸軍大将になるんだ」
と断言した。彼の兄は現役の陸軍中尉。久々に帰郷した時、憧れにも似た気持ちで四、五人の友とともに会った。凛々しい表情の中尉は、みんなの前で軍刀を抜いて見せた。ひどく興奮して、自分も軍人になるぞ、と固く誓った記憶がある。
五年生のある日、教室で落ち込んでいると、学級担任の女性の先生が寄ってきて、
「日本男児でしょう。何をくよくよしてるんです。そんなことで敵に勝てますか」
と厳しく詰問された。数え年二〇歳になったら徴兵検査が待ち受けているのだ。「小国民」であるわれわれ小学生は、未来の軍人ではないか。
三〇代半ばの男性教諭は児童たちに向かい、戦況について語った後、つねに、
「必ず神風が吹いて、敵を木っ端みじんにする。日本は神国なのだ」
と豪語した。だが敗戦になり、これまで用いてきた教科書に、「ここから何行に墨を塗るように」と指示しながら、こう言ったのだ。
「戦争なんか真っ平。平和と自由の国こそ私の願いだ」
この教諭、教職員組合が組織されるとすぐ書記長になり、叫んだ言葉が振るっている。
「戦争反対。教え子を戦地に送りだすな。死なすな」
この変わり身の早さに、子供たちはどんな感想を抱いたのだろう。少なくとも私は、これが“嘘つき先生”の正体だと実感した。
社会人になり、新聞記者の道を歩きだしたが、申し訳ないがこの組織だけは許せない、という感情が残った。北教組の大会などで「教え子を戦争に送るな」などの声を聞くたびに、胸が悪くなった。高校同期に中学教師がいたが、心を許して話すこともなく過ぎた。
話を戻してこの教師は、定年退職すると叫ぶことを辞め、10年ほど前、亡くなった。国家のありように合わせて都合よく生きた、正月早々そんな男の生涯に思いを巡らせた。
2024年1月12日
老楼快悔
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