新老楼快悔 第96話 白虎隊の生き残り、飯沼貞吉の話
会津戦争の最中、集団自決に走った会津藩白虎隊の少年たち。その中でただ一人生き返った飯沼貞吉が、後に郵逓省に入り、札幌大通局に勤務していたという話を耳にした時は、本当に驚いた。教えてくれたのはいまは亡き飯沼貞吉研究家の金山徳次さん。貞吉の生涯が急に身近に思えて、夢中で追いかけたものだ。
戸ノ口原の戦いに敗れて散り散りになった白虎隊士中2番隊の少年たちのうち17人は、逃れ逃れてやっとの思いで飯盛山の山腹にたどり着く。だが眼下に望む鶴ケ城は秋雨にけぶり、燃えて見えた。負傷者もいて前途をはかなんだ少年たちは、自決の道へ突き進む。
貞吉は刀で喉を突き立て、意識を失って倒れた。どれほど経ったか。遠くで誰かの呼ぶ声がして、はっと我に返った。印田ハツという女性で、戦いに出たまま帰らぬわが子を探して歩くうち、集団自決の現場に遭遇したのだった。
女性に背負われて山を降りた貞吉の話から、白虎隊の最期が明らかになる。降伏した会津藩は朝敵とされ、下北半島に移される。貞吉は貞雄と名を改め、複雑な思いを抱いて静岡へ赴き、開校されたばかりのわが国最初の電気通信専門学校に入学し、卒業後、18歳で逓信省(後の郵政省)に入り、電気電話技術の道を歩みだす。
日清戦争が起こり、朝鮮半島に赴いて電線の架設に従事し、日本の勝利が確実になると、自らの電線を用いて大本営に勝利を伝えた。
明治38年(1874)、逓信省の札幌郵便局の工務課長として赴任。すでに50代になっていた。この間、日露戦争に勝利して樺太南部がわが国の所有になり、道内の電気通信網は急速に拡大する。貞吉は電信電話戦の増設や電話交換機の設置作業の先頭に立った。
翌明治39年、札幌で北海道物産共振会が開催された時、初めて会場内に公衆電話が設置された。設置者は貞吉。まだ電話は珍しく、人だかりが出来たという。ちなみにこの時の北海道庁長官は鹿児島出身の園田安賢。貞吉より6歳年上で、戊辰戦争では北陸征討軍の伍長として出陣、戦傷を負った経歴を持つ。
貞吉はここで5年間暮らすが、その足跡を示すものは、札幌市中央区大通西2丁目にある札幌大通郵便局の建物と、宿舎があった鴨々川沿いに建つ「飯沼貞吉ゆかりの地」の碑だけ。貞吉は出退勤のたびにこの間を歩いた。
いつもネクタイをきちんと締め、喉の傷を隠していたという。ある時、宴席で、酔った部下に往年のことを問われ、ネクタイを外して古傷を見せた。場は一瞬、静まり返ったという逸話が残っている。
ゆかりの地の近くを通るたびに、教えを乞うた亡き金山徳次さんの顔が、おぼろげな貞吉の顔となぜか重なり合って浮かび上がってくる。
2023年7月21日
老楼快悔
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