新老楼快悔 第91話 榎本武揚をめぐる意外な話
前回の知人から入手したノートから、榎本武揚に関わる思いがけない話をしたい。
箱館戦争が終結し、敵将黒田清隆の嘆願で助命された榎本は、明治五年(一八七二)開拓使に入り、北海道内の鉱山調査のため函館に足を踏み入れた。榎本にとっては少年期に箱館奉行堀織部正の従者として、そして旧幕府軍を率いて蝦夷地入りしたのに続く三回目の北海道だった。
榎本は真っ先に亀田村の名士、亀谷熊次郎を訪ねて、箱館戦争で迷惑をかけたことを詫びる。そこで三年経ったいまも、戦争の影響を受けた人たちが大勢いるのを知る。戦闘で負傷し、そのまま残っている者、故郷に連絡もできないまま日々を過ごす者、人目に触れるのを避けて生きている者などさまざまだった。
榎本は亀谷に頼んで、この人たちに励ましと詫びの言葉を伝えるとともに、戦死者の供養をいまも続けている大円寺に赴き、供養料を供えて合掌した。
榎本は函館に二カ月ほど滞在して帰京したが、以来、毎年八月になると榎本から大円寺宛てに墓院掃除料が送られてきた。それは明治から大正、そして昭和戦前に至るまで続けられた。榎本が亡くなったのは明治四一年(1908)だからそれ以後は家族が継承したのであろう。
亀田村の神山をはじめ、中道、鍛冶、赤川、富岡、桔梗、七飯、七重、大中山、大野の人たちは毎年旧暦四月八日、四稜郭に集まり、箱館戦争戦死者の慰霊祭を続けた。この祭りは明治二七年(1894)まで続けられた。
この翌明治二八年、榎本は農商務大臣として北海道視察中に函館に立ち寄り、それを機に村人たちが相談して、土方歳三に縁のある真言宗に因んだ観世音菩薩像の建立計画を決めた。榎本は感激して相応の基金を与え、村人たちの基金と合わせて笹川冷泉側に最初の像が建てられた。以来十年ほどかかって三十三番までの観世音菩薩像が建てられた。
この地区は古くから毎年、高野山笹流霊場への観音参りが行われてきた。まず大円寺に参詣してから本堂右側の観音像へ、次に裏に回って箱館奉行所関連の墓、箱館戦争戦死者の墓、箱館戦争戦死者合璽之墓、山門前の無縁塚にお参りするのが習慣になっていた。
ここで榎本は、薩長政治に対する酷い評判を耳にする。函館に近いこのあたりはいまも逆賊地帯と見なされ、暮らし向きは少しもよくならないという。榎本は自ら勧めているメキシコ移住に希望者を当てようと、亀谷熊次郎を介して吉田松四郎の手配で人を集めて、メキシコへ送り込んだという。
残された文章から、榎本の思わぬ行動を知り、改めてその人となりに感じ入っている。
2023年6月16日
老楼快悔
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