新老楼快悔 第86話 知床岬で海難者の洋上供養祭

新老楼快悔 第86話 知床岬で海難者の洋上供養祭


 コロナ禍が少し収まり、マスク着用も自己判断となり、春めく街に活気が戻ってきたようだ。それに応じてか周辺が少しずつ動きだしてきた。そのうち、思わず二の足を踏んだのが「海難者洋上供養祭」への出席の要請。それも場所が例の観光船事故があった知床岬沖合なのだという。
 きっかけは拙著『生還―食人を冒した老船長の告白』(柏艪舎、『裂けた岬』改題再刊)の読者のメールから。拙著を読んだ中標津町在住の男性から出版社を通じて、「自分は難破船遭難者の墓を長年守ってきた人物の孫に当たるが、慰霊祭を催したいので、ぜひ著者に列席してほしい」と伝えられたのである。
 期日は七月八日。チャーター船に乗り込み知床岬沖合に出て、海上慰霊祭をする計画という。知床へはこれまで何度も行っているが、高齢のうえ、体調を崩してからは、出かけるのにかなりの決断がいる。
 あれこれ思案の末、やっと重い腰を上げた。電話で了解の旨と、こちらのスケジュールを伝えた。慰霊祭の当日早朝、新千歳空港を出発、中標津空港へ。そこで迎えの車に乗って中標津町まで行き、慰霊船に乗り込むというもの。
 実は今年は早くから二度の東京行きが決まっていた。一つはある演劇集団の祝賀会への出席と都内の取材を兼ねた二泊三日の旅。もう一つはこれもある文化団体の総会出席である。果たして体が持つのか、と家族は心配するし、嫁いで東京にいる娘も飛んできて、わが家に長逗留して私の上京に合わせて帰京するという慌ただしさとなった。
 そんな最中、病気で入院中だった帯広市の義妹が亡くなった。訃報と同時に妻は急ぎ帯広へ。驚いたことに葬儀場がひしめき合い、病院から自宅に遺体が戻ったまま長く留め置かれ、出棺が大幅に遅れた。だが遺族たちは、遺体がそばに安置されていてありがたい、と話していたのを知り、救われる思いだった。
 さて最初の東京行きは、取材する数がことのほか多いので、事前に都内在住の知人に協力を求める便りを出しておいた。ところが出発の二日前に返事が届き、体調が悪くて取材に同行できないという。大慌てで東京に住む息子に応援を頼むかたわら、取材先を縮小するなど慌ただしく対応に追われた。
 その朝、かくて老身は、妻娘に伴われ、よろめく足を踏みしめつつ、あの「若者たち」の歌詞を変えた「爺の歌」を口ずさみながら、わが家を出た。あぁ。

 爺のゆく道は 果てしなく遠い/だのになぜ 歯を食いしばり/爺は行くのか そんなにしてまで


2023年5月12日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ