新老楼快悔 第81話 歴史上の人物の文字
少し前の話だが、道立文書館で開拓使時代の資料を探していたら、偶然、「諸官員名札入」と表書きされた綴りを目にした。明治3年とあるから、開拓使の初代判官島義勇が着任し、僅か3カ月で退任した年、ということがわかる。
頁をひもとくと官員たちに混じって、開拓使に出入りした人々の氏名が記されている。もとより本人の自筆で、原野だった往時に引き込まれる思いがした。
真っ先に目に飛び込んできたのが「志村鐵一」の名。幕末期の札幌・豊平川岸に住み、舟渡しと宿屋を営んでいた。別の頁には「吉田茂八」の署名も見える。豊平川対岸に住んでいた猟師で、ともに札幌開祖とされる。島義勇との交流が深かっただけに、どんな会話がなされたのだろうと想像したりする。
開拓使の設置とともに、奥羽の敗北武士たちが新天地を求めて入植した様子も、この文書から伺える。伊達市に入植した仙台藩亘理領主の伊達邦成の家老、田村新九郎(顕允)、同じく当別町を拓いた岩出山領主、伊達邦直の家老、吾妻謙(謙吉)、また邦成の家臣で当別の間を駆けめぐった家臣の萱場源之助。さらには伊達一門の角田領主、石川源太の家臣、添田龍吉の名前も出てくる。
与えられた未開の土地を開墾して、新しい故郷をどう育てるか。それは逆賊とされた人たち全員の、もう後戻りはできないという悲壮な覚悟だったに違いあるまい。
おっ、と思うのは、箱館戦争を戦って敗れた仙台藩額兵隊長、星恂太郎。仙台藩の降伏を潔しとせず、榎本武揚に同行して蝦夷地を踏んだ若者に、敗戦後に残された道とはどんなものであったのか。
高畑居久馬(利宜)は開拓使2代目判官で、後に初代北海道庁長官を務める岩村通俊の懐刀といわれた。判官の命を受け、命懸けで上川探検をやり遂げた。退官後は滝川に移り、駅逓を経営した。
開拓廻漕御用取扱の添え書きがある山田文右衛門は、開拓使の廻漕を引き受けていた。島国である北海道にとって船は、重要な仕事だったわけで、添えられた文面に意気込みが表れている。
何度も出てくるのが十文字龍助。開拓使大主典として島を支えて石狩(札幌)本府建設に務め、退任後の事務処理及び後任の岩村通俊を補佐した。「十文字龍助関係文書」(『新札幌市史』第六巻史料編一)にくわしい。
さらには大工の大岡助右衛門、定山渓温泉を開いた美泉定山……、と歴史に名を残した人々の名が散見される。
一冊の古文書から、往時を生きた人たちの息吹が立ちのぼるのを覚える。
2023年3月31日
老楼快悔
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