新老楼快悔 第78話 小永井五八郎と妻の刀の話
咸臨丸子孫の会に入れてもらったお陰で、末裔の方々から思わぬ話を聞く幸運に恵まれた。その一人、軍艦操練所勤番下役公用方として咸臨丸に乗り込んだ小永井五八郎の子孫、小永井哲哉さんから見せられた先祖の資料には、圧倒された。
「由緒書下書」の頁をめくると「禄高百五拾俵五人扶持、本国三河、生国武蔵」とあり、続いて佐倉藩老職、平野重美の末子で、安政五年に幕臣、小永井藤左衛門の娘と結婚してその姓を名乗る、小永井家は先祖代々幕臣、と記されていた。
この文面から、五八郎が結婚したのは咸臨丸で太平洋を横断した2年後で、操練所調役として京都、長崎、箱館などへ出張するなど多忙な日々を送っていた。慶応2年(1866)6月の第二次長征に将軍家茂に従い出陣。だが家茂が出陣先の大坂城で亡くなる。慶喜が後継の15代将軍になると側近として仕えるなど、幕政の中枢にいたことがわかる。
驚いたのは同封されていた刀の写真だ。便りにはこう記されていた。
「小生の曾祖母小永井栄子(五八郎の妻)が慶喜の奥様から拝領した懐剣の写真です。剣の両脇に小柄と手裏剣らしきものが添えられており、小柄の刀身に〝荘司筑前大掾直胤作〟と刻まれています」
刀剣鑑定家、小美濃清明さん(東京都在住)によると、この刀は短刀と呼ばれ、付随している手裏剣のようなものは、手紙などを開封する時に用いる小刀という。
五八郎の妻栄子に短刀を贈った慶喜の妻とは美賀子であろう。慶喜はつねに下賜用の刀の手持ちがあり、妻が「祝い事の贈答に」と申し出て、手渡されたと考えられる。
小永井家は代々、将軍を守護する役目だが、藤左衛門には後継となる男性がおらず、娘栄子の婿に佐倉藩老職の平野家から五八郎を迎えて小永井姓を名乗らせ、将軍の側に仕えることにした。長年勤めてくれた老臣への餞の意味からも、結婚する息女への祝いの贈り物にしたと考えると、筋道が通ってくる。
五八郎のその後は『明治維新人名辞典』に「小永井小舟(しょうしゅう)」の名で書かれている。小舟は雅号。維新後は一橋候の侍読、尾張徳川家の明倫堂の教頭などをし、晩年は浅草新堀に濠西塾を設けて教授し、文墨に親しんだとある。
維新後に幕臣たちが辿った道はさまざまで、勝海舟は乞われて新政府の要職についたが、副使を務めた木村摂津守喜穀は黙って身を引き、芥舟(かいしゅう)の名で詩文に親しみ、自適の暮らしをした。勝海舟と同じ音のカイシュウだが、自らを塵芥の芥、ゴミの舟と名乗ったところに凄味を感じる。
小永井五八郎の小舟と考え合わせると、「一月三舟」の諺(ことわざ)を思い出す。一つの月を三つの舟から見ると、それぞれに異なって見えるという話だ。わが家の窓辺から月を眺めながら、三舟の心情に思いをはせている。
2023年3月10日
老楼快悔
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