新老楼快悔 第76話 高田屋嘉兵衛の“人間平等”思想
高田屋嘉兵衛は幕末期に、日露間で起こった“ゴローニン事件”を解決した人物として知られる。“ゴローニン事件”を調べていくと、そこから嘉兵衛の生き様が見えてくる。
嘉兵衛は兵庫県淡路島生まれ。新造船「辰悦丸」に荷物を満載して兵庫から蝦夷地――北海道の箱館(函館)へ向ったのは1796年(寛政8年)、28歳の時。箱館で積み荷を売りさばき、空船に蝦夷地の産物のサケ、マス、コンブなどを積んで兵庫に戻る。以来、箱館に店を置き、北前船で物資を各地に運び莫大な利益を上げた。
ロシアの南下政策が激しくなり、幕府は蝦夷地を直轄地にする。嘉兵衛は幕吏、近藤重蔵を乗せて国後島から択捉島へ渡り、航路を開き、漁場を設ける。
事件が起こったのは1812年(文化9年)8月14日、嘉兵衛が択捉島から箱館へ向かう途中、国後島沖でロシア船「ディアナ号」に捕まり、連行される。実はこの前年、幕府が「ディアナ号」艦長ゴローニン以下8人を逮捕しており、その対抗措置だった。
嘉兵衛はディアナ号副艦長のリコルドに対して、自分が幕府を説得してロシア側が求める艦長の釈放を願い出ると述べて了解を得ると、箱館に戻って幕府に対してゴローニンの釈放を訴えた。命がけの交渉は8カ月間も続いた。
9月28日、ゴローニンは箱館港で釈放された。出迎えのディアナ号の兵士らが「タイショー、タイショー」と歓声を上げる中、艦長は無事に引き渡された。嘉兵衛の互いの立場を理解し合おうとする思いが通った瞬間だった。ゴローニンは『日本幽閉記』の中で嘉兵衛を「白人に尊敬された初の日本人」と称賛している。
嘉兵衛はその後も持ち船を増やして蝦夷地と本州各地を結ぶ交易を広げ、豪商の名を欲しいままにした。やがて嘉兵衛は仕事を弟の金兵衛に譲って故郷に戻り、1827年(文政10年)、59歳で亡くなった。その5年後、幕府は、高田屋がロシア船と密貿易をしたとして、闕所(けっしょ)とし、財産を没収、没落する。
函館市の函館山麓に嘉兵衛像がそびえ、海沿いに箱館高田屋嘉兵衛資料館が建っている。もう10年も前になるが、その資料館でいまは亡き7代目の高田嘉七さんと出会った。
「嘉兵衛はたくましい開拓魂の持ち主でした。人間同士、話せばわかり合えるという強い意志が、難題だったゴローニン事件を解決させたのでしょう」
そんな話を聞きながら見せられたのが、労働者への賃金支払いを示す古文書。そこには和人に交じって日高地方のアイヌ民族への支払い金が克明に記載されていた。
「あの時代、請負人らはアイヌ民族を差別したといわれていますが、先祖はそんなことはしなかった。和人もアイヌ民族も同じ人間。人間平等の思いが強かったのでしょうね」
嘉兵衛の話を伺いながら、嘉七さんがまるで嘉兵衛そのものに感じられた一時だった。
2023年2月21日
老楼快悔
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