新老楼快悔 第69話 遠山の金さん、黄門様が蝦夷地に?

新老楼快悔 第69話 遠山の金さん、黄門様が蝦夷地に?


 北海道にはさまざまな人物が足を延ばしている。でも、本当なの? と疑ってしまうような例もある。
 一番有名なのが源義経。平泉で死なず、逃れて蝦夷地に渡り、さらに大陸に渡ってジンギスカンになったという「義経ジンギスカン説」は早くから噂されてきたもので、戦前は学者同士が書物で議論、沸騰した。昭和の戦後にも義経ブームが巻き起こっている。



 ちょっと愉快なのは水戸黄門がやってきたという話。水戸藩主徳川光圀は中納言という官職にちなみ「黄門」の名で呼ばれていた。蝦夷地に着目した黄門は、大型船「快風丸」を建造し、家来に現地調査を命じたのだ。元禄元年(1688)2月、藩士ら60余人を乗せた快風丸は常陸国那珂湊(茨城県)を出航し、6月、蝦夷地松前へ。松前城下の人々は見たこともない大船の出現に驚き、見物人が殺到したという。深谷萩右衛門ら7人は積んでいた伝馬船で石狩川を溯り、調査したと伝えられる。
 助さん、格さんを連れての船道中なら面白かったのに、と残念がる向きもあるとか。



 遠山の金さんが札幌入りした? これは金さんは金さんでも父親の金四郎違い。文化元年(1804)、通商を求めて長崎にやってきたロシア使節は、幕府に拒否されたため、帰国の際に蝦夷地沿岸を測量した。これを重く見た幕府は文化2年、東蝦夷地調査に派遣されていた遠山金四郎景普(かげみち)に西蝦夷地の調査を命じた。
 金四郎は勘定吟味役村垣佐太夫定行の到着を待って調査を開始した。松前から宗谷を巡り石狩へ。船で石狩川を遡り、発寒川、豊平川などを調べ、千歳を経て江戸へ戻った。
 遠山はその後も蝦夷地や対馬に赴き、長崎奉行、作事奉行、そして勘定奉行を歴任し、天保8年(1837)に86歳で亡くなった。息子の金四郎景元(かげもと)が江戸北町奉行に任命されるのは3年後のことである。
 明治維新の立役者、西郷隆盛は北海道へ足を踏み込んでいないが、箱館の沖合までは来ていたそうだ。明治2年(1869)、明治新政府は、箱館を奪って立て籠もる榎本武揚ら旧幕府脱走軍を鎮圧するため征討軍を送り込む。
 西郷はこの戦いの最中、船で箱館近くまできたが、戦況を見て上陸するまでもないと判断、そのまま引き返した。その後、全国各地に鎮台を設置する計画を立て、北海道にも設けようと部下の桐野利秋を現地に送り込み、札幌の真駒内を選定地に決めた。だがこれは実現せず、後に屯田兵制度が生まれることになる。



 箱館からアメリカ船で外国へ密航した新島襄の話は有名だが、坂本龍馬家を継ぐことになる甥の高松太郎改め小野淳輔(後の坂本直)が、清水谷公考に従い箱館に赴き、箱館裁判所権判事として働いたというのは、あまり知られていない。



 北海道史をめくると思いがけないさまざまな話が飛び込んできて、胸が高鳴る。


2022年12月23日


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