新老楼快悔 第65話 幼友達との出合いに思う
人生を振り返って、友人に恵まれたなぁ、とつくづく思う。小学校時代の友人のW君とは太平洋戦争最中の出合いだから、もう80年に近い。
一番の思い出は終戦間もない中学時代に、文芸誌を手作りで作ったこと。「俺たちだけでやろう」とW君と相談して、4、5人の文章をまとめてガリ版刷りの小冊子を作った。いまでは何を書いたかわからないが、夢中になって没頭したのをはっきり記憶している。
W君は中学を卒業すると、故郷の鉱業高校に進み、炭鉱マンになった。間もなく労働組合に加入し、若さにものをいわせて青年行動隊のトップに立ち、労働運動を指揮した。
新聞社に入社して故郷を離れて久しい私が、久しぶりにW君の消息を知ったのは、炭鉱会社が発行する社内誌だった。釧路支社勤務になり、白糠町の炭鉱に取材に赴いた時、事務所長の机の上に置かれていたのをふと手にして、その1面にW君の詠んだ短歌が1首、掲載されているのを見たのである。
思わず、唸った。驚きながら喜びの便りを出した。
エネルギー革命の嵐が吹きまくり、W君の働いていた炭鉱も閉山になった。ここから彼の第二の人生が始まる。努力に努力を重ねて福祉行政の道を辿り、やがて札幌市内の療育院のトップに上り詰めた。ほどなく定年退職に。
晩年を迎えた老友との会話は、いつも同じところを行き来する。先日、手術で入院した病院から電話をしたら、なんと彼も階は違うが同じ病院に入院していたのを知って、大笑いになった。
高校時代の同級生たちも、かけがえのない友ばかりだ。白状するが、この高校はあまり好きではなかった。父親の跡を継がねばならず、仕方なく選んだ実業高校だった。だから勉強は世界史のほかはほとんどせず、部活の高校新聞作りに情熱を燃やした。
3年生になった時、父親に殴られるのを覚悟で「新聞記者になりたい。だから跡は継げない」と震えながら伝えた。父は「わかった。やってみろ」とだけ言った。腰が抜けた。だが運命とは皮肉なものだ。それからほどなく父は亡くなる。享年44。愕然となった。
想像を絶する難関を何とか乗り越えて新聞社に入れてもらい、道内各地を回った。その行く先々に高校時代の同級生がいた。彼らはほとんどが開発局か道庁、支庁、市町村役場に就職しており、同級生に新聞記者がいることに、戸惑った面もあったに違いない。
その同期たちも全員が定年退職した後は、何でも話してくれる。中には役人としてやってはいけないような危険な行為も含まれている。「なぜ、現職の時、教えなかったんだ」などと言って爆笑の渦になる。
そんな仲間も、一人、二人とこの世を去っていく。人生の終盤を迎えた老境の身に、避けて通れない〝道〟が待ち受ける。
2022年11月25日
老楼快悔
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