新老楼快悔 第64話 墓所で興奮、百花園で納得
先日、上京した折りに、時間を見つけて、気にかけていた人物の墓参りをした。秦檍丸(はたのあわきまる)、別の名を村上島之允という。寛政一〇年(一七九八)、近藤重蔵一行とともに蝦夷地に渡り、国後島、択捉島をも探検し、人物、風土、物産などを絵で紹介した最初の探検家とされる。
知人の運転する車で坂道の続く谷中・玉林寺へ。山門を潜り、本道脇の庫裏を訪ねて、若僧に墓の位置を尋ねると、「いま来られた方とは違いますね。その先に墓守がいるので聞いてください」という。先客がいたとはと、いささか驚きながら墓地へ。
墓前に、参詣を済ませたその方がいて、
「同じ時に、同じ墓の参拝とは不思議なことですね」
そう言いながら挨拶を交わした。名を名乗り、取材に来た旨を告げると、相手の方は北海道教育大函館校の元教授で、私のことを知っていて話が弾んだ。聞くと秦檍丸の書いた地図の精密さに惹かれ、研究を続けているという。
それにしても、秦檍丸という歴史上の人物の墓を、北海道に住む二人の男性がそれぞれの立場で同じ日の同じ時間に訪れたという偶然に、不思議なものを感じて、いささか心が昂(たかぶ)るひと時となった。
車は次に向島の百花園へ向かう。同園は文化文政期に生まれた江戸の名所で、晩年の榎本武揚がよく遊びに出かけたとされる。園内を歩くと数多くの碑が見えた。その一つ。
朧夜(おぼろよ)や たれをあるじの墨沱(すみだ)川
江戸末期の俳人、其角堂永機(きかくどうえいき)の句碑で、碑面の文字は奔放な本人の字体を用いたものという。碑裏には魚河岸の旦那衆や歌舞伎の五代目菊五郎の名とともに、永機の略伝が刻まれているというが、いまは草木が生い茂り、見ることができない。
この句碑を読んだ榎本武揚が「下手だなあ」と言い、代わりにその場で、
墨田川 誰れをあるじと言問(ことと)はば 鍋焼きうどんおでん燗酒(かんざけ)
と詠み、「どうだ、うまいだろう」と言ったというのを本で読んだ覚えがある。いかにも榎本らしい逸話だが、見渡すとうららかな晩秋の午後、さもありなんと思わす風情が漂う。
この時期、榎本はすでに最後の閣僚となる農商務大臣を辞任して市井人となり、しばしばこの百花園を訪れて、江戸っ子弁丸出しで話しながら、好きな酒を飲んでいたという。
園内の一隅に立つあずまやで年輩者が一人、くつろいでいた。それが燗酒を呑む榎本の姿と重なって、思わず笑みがこぼれた。
2022年11月18日
老楼快悔
トップページ
柏艪舎
トップページ