新老楼快悔 第62話 「満州開拓団を学びたい」と訪れた少年

新老楼快悔 第62話 「満州開拓団を学びたい」と訪れた少年


 しばしば思いがけないことに直面する。長く暮らしをしているのだから、当然の話なのだが、なぜか不思議な心境になってしまう。
 中標津に住む男性から突然、便りが届いた。拙著『生還 食人を冒した老船長の告白』(柏艪舎刊)を読み、「自分の祖父、叔父がこの遭難船の犠牲者の霊を長年、慰霊してきたので、私もその意志を継いで慰霊をしたい」と記されていた。
 この本は最初、『裂けた岬』(恒友出版)の表題で1994年に出版され、2020年に改題して出版された。思わぬ反応に驚きつつ、本人に連絡して「ぜひ慰霊してほしい」と告げ、要望通りに船長も含めて死亡した7人の氏名を護摩木に1枚1枚書いて送った。
 本人から「お蔭様で立派な供養ができました」という便りが届き、安堵の胸を撫で下ろした。男性からはその後、何度もメールが届き、いまも深い交流が続く仲に。
 古びた本を手に亡き船長を偲びながら、本の持つ計り知れぬ‟凄さ”に瞑目している。
 もう一つ。3年ほど前に「ぜひ満州開拓団の最期を綴った7冊のノートを見せてほしい」と便りをくれた栃木県に住む少年が、今年になって「大学生になりました。ぜひお伺いしたいのです」と伝えてきた。
 「7冊のノート」というのは戦前、開拓団として満州(現在の中国東北部)に渡った人たちが1945年8月、ソ連(現ロシア)軍の侵攻と現地中国人の蜂起で、多くの死者を出した模様を、約百団の責任者が報告文としてまとめたもの。
 このノートが突然現れる。1977年夏、札幌市の西本願寺で「満州開拓団、義勇隊敗戦時避難時犠牲者三十三回忌法要」が催される直前、主催者の日中友好手をつなぐ会北海道支部長の柴田正雄さんのもとに年配の男性が訪れ、「霊前に祭ってほしい」とノート7冊を手渡し、名も告げず立ち去ったのだ。
 中身を読んで驚いた柴田さんは、見ず知らずの私を訪れ、「ノートをもとに本を書いてほしい」と告げた。なぜ、私のもとに来たのか。日中国交回復の直後に日中友好協会北海道の訪中団の一人として訪中し、その模様を紙面に掲載したのを見たのが原因らしい。
 ノートの執筆者を探して歩き、やっとまとめたのが『死の逃避行』(富士書苑)という本。以来、「ノートを見せてほしい」という開拓団関係者は引きも切らず、そのたびに関係部分をコピーして送るという作業を繰り返した。
 それらがやっと納まって、40数年を経たいま、大学生になったばかりの若者が登場したのである。意外な感に打たれながら、その日を待った。
 少年は爽やかな雰囲気をたたえて現れた。部屋に通して4時間ほど。その誠実な態度に好感を抱いた。満州関係の膨大な資料を古写真ともどもどっさり与えた。少年は嬉しそうに大きな荷物にまとめて、それを担いで帰っていった。
 少年の後ろ姿を眺めながら、彼はこれからどんな道を歩んでいくのであろうかと考え、夢中になって全国を駆けめぐったあの頃に思いを馳せた。





2022年11月4日


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