新老楼快悔 第60話 咸臨丸終焉150年の式典に出席して
沈没船を慰霊する珍しい式典が催され、私も招かれて出席し、花輪を供える機会を得た。船の名を「咸臨丸」という。
咸臨丸といってもご存じない方が多かろう。幕末期の安政7年(1860)、日米修好通商条約本書批准交換使節団の随伴船として、副使木村摂津守喜毅、教授方頭取(艦長)勝海舟、通訳中浜万次郎、従者福沢諭吉らを乗せて太平洋を横断した船である。
だが維新後の明治4年(1871)9月20日(新暦に直すと11月2日)、仙台藩片倉家の元家臣団と家族を乗せて小樽に向かう途中、木古内町のサラキ岬沖で座礁、沈没した。乗員は全員、救出されたが、船体はいまも見つかっていない。
地元では早くからこの岬に「咸臨丸、ここに眠る」の標識を立て、その栄光を伝えてきた。
姿形のない咸臨丸に着目したのが地元、木古内町の人たちだった。「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」を平成16年(2004)に立ち上げ、会員たちが荒れ放題だったこの岬の整備に取りかかり、すべて労力奉仕で整地し、咸臨丸の模型や風車を設置し、オランダから輸入したチューリップの花々を毎年、毎年、植え続けたのである。
この間、咸臨丸まつりが誕生し、咸臨丸子孫の会(本部・横浜)の会員たちが相次いで訪れて絆が深まり、いまでは多くの観光客を呼び込む新たな観光地に変貌した。
そして今年は咸臨丸終焉150年を迎え、記念式典が10月1日、サラキ岬で催されたのである。実は昨年計画しながら、新型コロナ禍で延期になり、待ちに待った式典だった。
この日は快晴に恵まれ、鈴木慎也町長はじめサラキ岬に夢みる会の舛野信夫会長以下会員や町民ら、それに咸臨丸の関係者らが大勢出席して式典が始まった。
岬に建つ慰霊碑に関係者たちが次々に花輪を手向けた後、鈴木町長が挨拶に続いて舛野会長が「この歴史遺産を大事に守っていきたい」と挨拶。さらに咸臨丸子孫の会副会長の高山みな子さん(勝海舟子孫)が「咸臨丸を大切にしてくださってありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。
この言葉を聞きながら、胸に熱い想いが込み上げた。遠いあの日――、咸臨丸の取材でオランダ・キンデルダイクに赴き、オランダ在住北海道人会の松本善之会長と会い、咸臨丸の造船所を捜しまわったこと、竣工した咸臨丸が日本に向けて発った軍港を訪れたこと、そしてようやく『咸臨丸、栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社刊)という本を出版したこと……などが次々に思い出された。
「咸臨丸ここに眠る」の標識を見たのが30代の時。取材を始めたのがそれから20年経た1992年(平成4)からで、オランダの後、アメリカのサンフランシスコに赴き、さらに長崎、神奈川、清水、宮古……と駆けずり回った。
それほどまでに私を夢中にさせた咸臨丸の魅力とは何だったのか。不思議な思いを抱きながら、サラキ岬の沖合を見ていた。
2022年10月21日
老楼快悔
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