新老楼快悔 第52話 道史協の研究大会に参加して

新老楼快悔 第52話 道史協の研究大会に参加して


 新型コロナの蔓延により、相次いで中止になった会合が、やっと息を吹き返した。私も所属している北海道史研究協議会(略称・道史協)の総会と会員の研究発表会が6月11、12両日、札幌・かでる27で開かれ、会場は待ち焦がれていた大勢の会員が詰めかけた。
 初日の発表は大沼忠春さんの「北海道史の古代・中世史を巡る諸問題――こしの島をめぐる諸問題――」、中野克良さんの「アブタ道はどんな道だったか」、江本嘉敞さんの「慶応3年の箱館奉行兼帯と複数制復活について」、2日目は石井祐実さんの「アイヌ民族の鍬形について」、榎本洋介さんの「開拓史の石狩府双肩と島判官の札幌本府建設」。発表後に、それぞれ担当者のコメントが続く。
 私は残念ながら2日目だけの出席だったが、初日の資料も戴いたうえ、いつもながらの真摯な雰囲気に浸ることが出来て、心が和む思いがした。
 席上、配布された会報誌110号の中に会員、木村裕俊さんの「土方歳三はどこに埋葬されたのか」という研究論文が掲載されていた。要約して紹介すると、こうだ。



 明治2年(1869)5月11日朝、新政府軍は箱館市中を総攻撃し、午前10時過ぎ蝦夷島臨時政権軍の弁天台場は孤立した。土方歳三は弁天台場を救おうと僅かな兵を率いて一本木関門付近(函館市若松町辺り)まで出陣するが、新政府兵の狙撃弾が腹部に命中し絶命した。
 その最期は多くの古文書類に書かれているが、内容が少しずつ違う。また、土方の遺体は五稜郭内に運ばれ、急ぎ葬儀を済ませて郭内に埋葬されたといわれるが、その場所は未だに不明。長く伝えられる「五稜郭内説」、神山町の「大円寺説」、そして近年注目され出した「七飯閻魔堂説」について以下の通り述べている。
「五稜郭内説」は同郭内の南西部に「兵糧庫」と呼ばれる建物があり、そのすぐそばにいくつかの土饅頭があり、土方の遺体もここにあるとする説。これは明治32年(1899)の「史談会速記録」で、春日左衛門の看病をしていた少年の田村銀之助が「伊庭八郎の墓は、郭内の土方歳三の墓の傍らにある」との証言に基づくもの。
「大円寺説」は土方の馬丁の吉田松四郎の話に基づくもの。大円寺の二本松のすぐそばに「箱館戦争犠牲者慰霊碑」があり、土方の名も刻まれているのが根拠とされる。
「七飯閻魔堂説」は明治25年(1892)の加藤福太郎書簡による。東京府多摩郡(当時)出身の加藤は室蘭警察署の巡査として赴任する時、土方の従兄弟の平忠次郎から「函館へ行く機会があったら調べてくれ」と頼まれ、現地へ赴き調査して回答したもの。だが七飯村には閻魔堂はなく、亀田無縁寺が別名閻魔堂と呼ばれたなど誤った解釈がなされた可能性があり、結局、「埋葬地に近づくにはもう少し時間が必要なのかもしれない」と結論付けている。
 土方歳三の遺体はどこに? 永遠の謎を秘めて、遺体探しはなおも続く――。





2022年8月19日


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