新老楼快悔 第50話 箱館戦争を終結させた男
箱館戦争が終わったのは明治2年(1869)5月18日。その陰に「戦は好まない」と置き手紙をした人物がいて、それが終焉に結びついたという。長引くロシアの侵攻を目の当たりにして、そんな人物の存在を思い起こしている。
この人物は榎本武揚率いる蝦夷島政権側の会津藩士、諏訪常吉。明治2年4月9日、新政府軍の反撃が始まり、諏訪は会津遊撃隊70人を率いて渡島当別の海岸線に守備したが、4月22日、一通の書状を書き、新政府軍の目に止まるのを念じて残した。決意の置き手紙である。内容を紹介する。
遠路ノ御出馬御苦労ニ存奉候 然ルハ小子儀、素(もと)ヨリ戦ヲ好マズニ候間、早々ニ引揚申ス 已ムヲ得ザル際ニ立至リ候ハバ、御用捨(ごようしゃ)ヲ蒙リ候儀モ御座有可(ござあるべ)ク候。 以上。
四月二十二日 諏訪常吉
官軍 御人数諸君 厦下
私は戦いを好まない、引き揚げます、というもので、場合によっては容赦なく戦うとしている。この便りは諏訪の思惑通り、新政府方の津軽藩の斥候2人が見つけ、薩摩藩士を経て新政府軍参謀に届けられた。
この間にも戦闘は続き、箱館総攻撃の5月11日、新政府軍参謀の黒田清隆は、一隊を指揮して夜明けとともに箱館山からなだれ込んで市街地を制圧。これにより臨時政権軍の拠点・五稜郭と弁天岬台場の通路を断ち切られた。土方歳三が戦死したのはこの戦いだ。
黒田が諏訪の置き手紙を読んだのはこの時期と思われる。黒田は配下の池田次郎兵衛と村橋直衛に、諏訪と会い、和戦工作を命じるが、諏訪は重傷を負い、箱館病院に入院中で身動きもできず、交渉を院長高松凌雲、事務長の小野権之丞に任せた。
高松は新政府軍の意向を汲み、榎本武揚に宛てた書簡に書き、五稜郭に届けた。だが14日、榎本から拒否する旨の返信がきた。ただ文面の最後に、オランダ留学中に学んだ『万国海律全書』を兵火に焼くのは忍びないので、高松を通して相手の参謀に渡してほしい、と書かれていた。
16日朝、中島三郎助父子が戦死。その夜、榎本は自決を図るが失敗。17日、榎本は恭順、降伏を決意し、新政府軍本営に出頭して黒田と会談し、翌日、箱館戦争は終焉となる。諏訪は戦争の決着を見ることなく、中島が戦死した同じ日に息を引き取った。
諏訪はいま、函館市船見町の実行寺の墓地で眠っている。もし、諏訪の置き手紙がなかったらこの戦いはもっと泥沼化していたはず。そうなれば榎本らはどうなっていたか。歴史の織りなす彩が私の思いを複雑にする。
2022年8月5日
老楼快悔
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