新老楼快悔 第47話 大物政治家の暗殺に思う
安倍晋三元首相(67)が奈良市内で参議院選挙の応援演説中、元海軍自衛隊員(41)に銃撃され、亡くなった。国内は騒然となり、「もう号外など出さない」と言っていた新聞社が、いっせいに「意識不明」の号外を出し、死去が発表されると、第2号外を出す慌ただしさだった。
現行犯逮捕された男は「特定の宗教団体に恨みがあり、元首相もその団体につながりがあると思い、事件に及んだ」と供述しているが、真意はどこにあったのか判然としない。
政治家を狙った犯行は、このところ陰を潜めていたが、ひるがえって明治から昭和にかけて数多く発生している。主なものを挙げると――。
明治15年(1882)4月、自由党総理、板垣退助は岐阜県富茂登村(現岐阜市)で演説を終え、会場を去ろうと玄関口に出た時、待ち伏せしていた短刀の男(27)に襲われた。この時、板垣が叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が、後々喧伝されることになる。
次が明治22年(1889)2月11日朝、東京・永田町官邸で起こった文部大臣森有礼(43)の暗殺。この日は憲法発布記念式典の日で、若い男が面会を求めて入り込み、大礼服を纏った森を出刃包丁で刺し殺した。
3番目は明治42年(1909)10月26日、清国(現中国)を視察中の枢密院議長伊藤博文(69)が哈爾濱(はるびん)駅頭で韓国人青年に射殺された。この事件後、日韓併合が定まり、韓国は屈辱の歴史を重ねることになる。
4番目は大正10年(1921)11月4日夜、首相原敬(66)が京都へ赴くため東京駅の改札口に向かった時、群衆の中から刃渡り6寸(18センチ)の刃物を構えた青年が飛び出してきて、体ごと首相にぶつかった。首相は右胸部を指され、絶命した。
5番目は昭和5年(1930)11月14日朝、首相浜口雄幸(62)は岡山県下の大演習の陪観のため東京駅から特急列車に乗り込もうとしたとき、近付いてきた青年に拳銃で撃たれ倒れたが、意識ははっきりしており、「男子の本懐」と述べた。以後3回手術を受け、69日ぶりに退院し、翌年3月から登院したが、結局は辞職し、8月26日、亡くなった。
続いて昭和7年(1932)2月9日夜、民政党筆頭総務で前大蔵相の井上準之助(64)が拳銃で撃たれ即死。そして5月15日には国家改造を目指す海軍青年将校らが首相官邸に押し入り、首相犬養毅(76)を射殺する「5・15事件」が起こった。そして昭和11年(1936)の「2・26事件」へと連なっていく。
終戦をはさんで昭和35年(1960)10月12日、社会党委員長、浅沼稲次郎が暗殺され、犯人は17歳の少年とわかり、その背後関係をめぐって捜査が続く中、少年は自殺する。社会はおののき、震え上がった。以後、岸信介首相の暗殺未遂事件などが続いた。
犯罪は繰り返されるというが、安倍元首相の暗殺事件もまた、歴史のエポックのひとつとして人々の記憶に刻まれていくと思うと、なぜか怒りやら虚しさがないまぜになって、どうにもならない気持ちに陥ってしまうのだ。
2022年7月15日
老楼快悔
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