新老楼快悔 第49話 札幌の開拓期を生きた大岡助右衛門

新老楼快悔 第49話 札幌の開拓期を生きた大岡助右衛門


 大岡助右衛門という人物が、箱館戦争で侠客、柳川熊吉に協力して、徳川脱走軍の遺体を密かに運んで埋葬した人物とは知らなかった。慌てて資料をあさり、墓碑のある札幌市豊平区の経王寺へ赴き、その波乱万丈の生涯に思いをはせた。



 助右衛門は天保7年(1836)、武蔵国大岡村(現神奈川県横浜市)の農家の生まれ。成長して江戸に出、大工職の仕事につき、安政5年(1858)、五稜郭の建設工事を請け負った中川組(中川伝蔵)の大工頭として箱館に赴き、五稜郭の建設に挑んだ。
 明治4年(1871)1月、開拓判官島義勇の東京召還で一時停止になった開拓使札幌本府建設が再開されると、中川組頭として職人、作業員らを率いて札幌に入る。
 同年暮れ、独立して大岡組を設立。35歳。みるみる頭角を現し、多くの開拓使の建設工事を手がけた。剛腹な性格で義侠心に富む助右衛門は自ら現場の先頭に立ち、働いた。文字を読むことも書くこともできないが、持ち前の義侠気質で作業員たちを使い、立ち働いた。お陰で「大岡組の仕事はしっかりしている」といわれ、工事の発注が相次ぎ、大岡組の収入は大変な額になった。
 助右衛門は作業員たちには寛容な態度を見せ、仕事が済んで夕暮れになると、酒を振る舞い、賃金も相応に手渡したので、誰もが助右衛門を信頼した。作業員が「内地に残してきた妻子に金を送りたいのだが」と泣きつくと、借用書など用いずに金を渡した。
 作業員たちは荒っぽいが人情味のある助右衛門を「大岡の親方」と親しみを込めて呼んだ。
 助右衛門が手がけた主な仕事は枚挙にいとまがない。札幌農学校寄宿舎(現北海道大学寄宿舎)をはじめ、屯田兵琴似兵村の兵屋群の一部、豊平館の建設など。ほかに小樽入船町波止場、幌内鉄道の建設など、いずれも開拓初期の重要な建物、施設ばかりだ。



 助右衛門は請負業界の第一人者として、札幌請負人組合幹事になり、さらに札幌区総代人に選任された。だが文字を読めないことが影響して、思わぬ事態を引き起こす。部下が助右衛門が帳簿も読めないのをいいことに、揚げ金をごっそりだまし取って姿を隠したのだ。
 しかも、頼みの長男が豊平川の架橋工事で事故死し、愕然となった助右衛門は請負業を辞める。折から日蓮宗の経王寺の創建の話が持ち上がっていた。助右衛門は豊平の自分の土地を寄付してそこに新たなお寺、経王寺が誕生した。
 助右衛門はその寺で暮らすが、やがて静かに息を引き取る。残されたものは墓と遺骨と肖像画だけ。今年は没後120年。助右衛門が建設した豊平館は、当時のままの姿をいまに残しており、男の情念を感じる。






2022年7月29日


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