新老楼快悔 第43話 80年前の街角に見えるもの
ロシアのウクライナ侵攻から100日が過ぎた。その相次ぐ報道に「あの頃とよく似ているな。」という感想を抱く。
いまからおよそ80年前というと戦前の昭和10年代になる。筆者の少年時代に当たるが、その頃、町中に溢れていたものをいくつか紹介する。令和の現代では想像もつかないものばかりだ。
最初は「代用食共同配給所」の看板で、小樽食料品雑貨小売商業組合が掲げたもの。代用食とは主食のコメに代わる食べ物を指す。コメが不足し、代用食となる雑穀を配給していたわけ。飽食時代と言われる現代とは真逆の“飢餓の日々”だった。
2番目は「移住者のお世話を致します」と書かれた標注。この時期、本州方面も極端な食糧難に陥り、北海道への移住者が増えていた。政府はその人たちに、開拓地を与え、営農の世話をした。道内には手つかずの未開地がたくさんあり、就農により食糧を得ようとしたのだ。だが、与えられた土地は荒れ地ばかりで、逃げ出す人もいた。
3番目が「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスター。中国東北部に満州国を作ったわが国は、都道府県や町村単位で開拓団を組織して送り出すとともに、青少年義勇軍の名で小学校高等科卒業のこどもたちを募集し、国内で訓練の後、中国大陸へ送り込んだ。小学校高等科卒といえば現在の中学3年生になったばかり。そんな子供たちに「大陸日本、築け若人」と呼びかけたのだ。
驚くばかりの政策だが、やがて適齢期を迎えるのを見越して、花嫁候補になる女性を育てる「開拓女塾」まで設けている。戦争が逼迫し、若者に成長した義勇軍たちは、花嫁を置いて次々に出征。参戦したソ連が国境を破って侵攻し、開拓地は凄惨な地獄絵と化す、という運命をたどる。
4番目は「警戒警報発令中」の看板。この看板が掲げられ、敵機来襲を告げるサイレンが鳴り響くと、家族たちは声をかけ合いながら、夢中になって防空壕に避難する。
筆者も、町内会が作った手掘りの防空壕に駆け込んだものだが、幸い敵機は上空を素通りして危機を脱した。だが道内各地は空襲にさらされ、ことに昭和20年(1945)7月14、15日の北海道大空襲は根室、釧路、帯広、本別、旭川、網走、石狩、室蘭、函館など広範囲にわたり、『北海道大百科事典』によると、死者1715人、焼失全壊家屋5729戸、そのほか工場が破壊され、青函連絡船は撃沈、沈没し、壊滅状態になった。
この空襲から20日余り後の8月6日、広島に原子爆弾が投下され、続いて9日、長崎にも投下され、町は廃墟と化した。この日、ソ連が宣戦を布告して一気に国境線を突破して南下し、満州はあっという間に崩壊し、南樺太はもとより北方四島まで奪われてしまった。
歴史は繰り返すというが、いま世界はロシアのウクライナ侵攻、そして中国の“台湾有事”に揺れている。古びた4枚の写真をいまだに捨てずに保存しているのは、歴史的な事実を伝える大事な資料と思うからにほかならない。
2022年6月13日
老楼快悔
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