新老楼快悔 第41話 鮮烈な青春時代の思い出

新老楼快悔 第41話 鮮烈な青春時代の思い出


 こんなことってあるのだろうか――。退職以来、道新文化センターの講師を勤める私の元に、先日、一人の塾生(70代女性)から便りが届いた。読んで驚いた。実は最近、この女性を含む3人の塾生がそれぞれ本を出版した。新聞記者の取材を受け、私も入って撮影した写真入りで紙面に掲載された。
 便りによると、その塾生の遠縁に当たる女性から電話がきて、
「新聞を見て、東京にいる友だちS子さんに伝えたら、あなたの塾の先生を知っているんですって。昔、帯広で高校生の時、新聞記者だった先生の取材を受けたというの。消息を伝えていいかしら」
 といわれた。それで相談の便りをしたという。
 思い起こすとこの取材は昭和31年前後、高校野球十勝地区予選の開会式で、その女性が出場校のプラカードを掲げて入場した時、私が写真撮影して紙面に掲載。後に写真を本人に手渡したはずだが、便りにはその写真をいまも大事に持っているという。
 新聞記者になって間もない駆け出し時代の、遠い日の一コマが突然、浮かび上がった。思わぬ衝撃に、慌てて便りの塾生に電話をかけると、言葉を選びながら、
「昔のことなので、先生がご存知かどうか、伺ってほしい、といわれましたので」
 と述べた。
 あの頃、記者といっても、編集部長に命じられるまま、美術の展覧会でも、支庁の発表ものでも、何でもこなした。事件が起こったら現場に走り、記事を書くだけでなく、暗室に入り、撮影した写真の現像、焼き付けし、電送した。
 書庫に積んだままの当時の古いスクラップブックを探すと、「あったっ」。5枚組の写真の中に、「帯広柏葉高校」のプラカードを掲げた女生徒と、その後ろを行く柏葉ナインの写真入り紙面が。
 あの時、大会を終えた後、女子高校生の誘いに乗り、同僚たちとともに街で会った記憶がある。どんな話をしたのか、まるで覚えがないが、若さ故の燃えたぎる一時だったはずだ。
 間もなく私は転勤になり、釧路へ移った。以後、再会することも、思い出すこともないまま道内を転々とし、60歳で定年退職。以後、大学の講師をしながら作家活動に入った。80歳になった頃から帯広、十勝へ取材で赴く仕事が急に増え、それが『評伝関寛斎』『アイヌ新聞記者高橋真』(東京・藤原書店)の出版に結びついた。
 ひるがえっていまも帯広、十勝の話になると、胸に沸き立つものがあるのは、ひたすら必死に生きた若い日々の思いが、体内にこびりついているからに違いない。



2022年5月30日


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