新老楼快悔 第40話 団長の人間性が開拓団を救った

新老楼快悔 第40話 団長の人間性が開拓団を救った


 東京のある出版社から書物が届いた。著者から献呈の依頼を受けたので送付した旨の便りが添えられていた。表題を見て、満州開拓団関係の書物とわかった。実は40年ほど前、「満州開拓団、義勇隊犠牲者敗戦避難時犠牲者33回忌法要」が札幌・西本願寺で催された際、見知らぬ年配の男性が持ち込み、霊前に供えられた「七冊のノート」(満蒙開拓団最後の記録)れをもとに私が執筆して『死の逃避行』など数冊の関連本を出した。以来、数々の元開拓団関係者から便りが寄せられ、「ノート」を用いた開拓団関係の本も多数、出版され、その反響の凄さに驚かされたものだった。
 今回の本は、帰国した開拓団長が残した記録をまとめたもので、表題は『未開地に入植した満蒙開拓団長の記録 堀忠雄「五福堂開拓団十年記」を読む』。著者は黒澤勉、小松靖彦の両氏。
 堀元団長を訪ねた遠いあの日がまざまざと甦った。長野県の取材を済ませて東京に戻り、寝台列車で盛岡駅に着いたのは翌日早朝。堀さんは駅頭まで迎えに来てくれた。案内されて赴いた堀宅には、堀夫人と前夜から泊まりがけの人も含めて元団員の年配女性4人が集まっていた。せっかくだから一人でも多く、というのが堀さんの配慮だった。
 五福堂開拓団は昭和12年(1937)から13年にかけて新潟県から北安省通化県に入植した開拓団で、堀団長は東京大学土木科出身の若きリーダー、総勢400余人。多くの開拓団が中国人の農地を奪ったのと違い、未開地に入植して開墾に励んだ。全体で7500ヘクタール。うち中国人の耕作地が2パーセントほど含まれていたが、追い払うようなことはせず、希望すれば新墾を許可する契約をした。日本人も中国人も農民は農民同志との立場で接したので、トラブルどころか、崇拝された。
 堀団長は早々とトラクターを導入して開墾を進めるかたわら、幹線道を作り、牧場を設けて綿羊、豚、馬、牛、鶏などを養育した。また試験水田を作るなど、団員の先頭に立って働いた。
 堀団長の夢は「唄う村民にしよう、歌う村を創ろう。躍る拓士と共に人生の歓喜を配(わか)ち合う。その中から新しい歴史を軌(か)き続けてゆきたい」というもの。そんな団長のいた開拓団なので、敗戦時に65人の死者を出したものの、自決者や行方不明者を1人も出さなかった。
 悲劇的な満蒙開拓団の歴史の中に存在した、人間の可能性を伝える堀元団長。本をめくりながら、あの日、生きる意味を語ってくれた穏やかな言葉を、いま重く噛みしめている。



2022年5月23日


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