新老楼快悔 第36話 三浦綾子さんの思い出(上)
作家の三浦綾子さんが亡くなって早23年。しかも今年は生誕100年に当たるので、様々な催しを計画中と旭川市の三浦綾子記念文学館の館報「みほんりん」が伝えてきた。それを観ながら三浦さん夫妻と関わった40数年前の出来事が鮮烈に甦った。
1975年(昭和50)3月、私は北海道新聞旭川支社へ異動になった。ほどなくT支社長から「今夜空いてるか」と誘われ、同行した先が三浦家だった。支社長は近く役員に昇格して札幌に異動するので、今後は、三浦家と関わる役目を引き継ぐようにというものだった。
三浦家は転居したわが家の近くにあり、中一になったばかりの長男は、日曜日ごとに三浦家を訪れ、礼拝のオルガンを弾いていると耳にしていたので、訪問してすぐその話をしたら、夫妻はよほど驚いたようだった。
この夜は綾子さん手作りの焼肉パーティーとなった。綾子さんが焼肉を箸でつまんで皿に盛ってくれる。夫妻は酒を飲まないが、支社長と私はワインを2本も空にして、心地よく酔いしれた。
支社長が本社取締役編集局長になって間もなく、学芸部長から難題が持ち込まれた。
「編集局長の命令だ。三浦先生に小説の連載を交渉してほしい」
ええっ、一瞬、息をのんだ。と同時に、支社長(編集局長)の計画がそこにあったのかと思いを巡らした。ご存知のように三浦綾子さんは朝日新聞の懸賞小説に応募した作品『氷点』が当選し、デビューした女流作家である。そこへ割り込むなど到底できまい。だが学芸部長は局長命令だとして、譲らない。仕方ない。当たって砕けろか。
翌日、三浦家を訪ねて恐る恐る切り出した。すると綾子さんは、
「道新さん、やっとこちらを向いてくれたのね」
と言い、夫の光世さんと顔を見合わせ微笑んだ。
やがてテーマは1926年(大正15)5月に起こった十勝岳爆発とそれに伴う泥流被害で肉親を失った人々が、逆境にめげずに生き抜く内容の物語に決まった。すぐに舞台となる上富良野町に連絡して、当時を体験した人たちに集まってもらう手筈を整えた。
その日、昭和50年9月22日、夫妻は私の運転する車に乗り込み上富良野へ。爆発の跡が生々しく残る十勝岳麓を巡ってから、泥流で押し流された死体が多数引っかかったとされる「涙橋」のたもとへ。ここで夫妻は頭を垂れて深い祈りを捧げた。
休む間もなく約束の時間に町役場へ。到着すると担当の役場職員と被災者となった数人の方々が待っていた。以下は次回に続く。
2022年4月18日
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