新老楼快悔 第30話 入院一カ月、ベッドの上で

新老楼快悔 第30話 入院一カ月、ベッドの上で


 年末から年始にかけて、一カ月間も入院するハメになった。なんとか退院できたものの、体はすっかり衰えてしまい、机に向かっても思うように仕事ができない。88歳にもなって、改めて健康のありがたさを体感させられた。
 大腸癌と診断され、入院したのは暮れの12月17日。癌の部分を除去したらすぐ戻れるというので、最初は軽い気持ちだった。20日朝全身麻酔で手術を受け、夕方気づいたらベッドの上。何の痛みもない。家族に携帯電話でその旨を伝えた。
 体調が急変したのは翌21日。高熱が出て、口からどろっとした黄色い唾液が溢れ出し、ぬぐってもぬぐっても止まらない。23日は再び猛烈な嘔吐に襲われ、朦朧とした頭で死を覚悟し、家族や知人らに携帯で知らせた。医師による緊急処置でやっと窮地を脱したのはその夜遅く。
 未明に、不思議な体験をした。病室の白壁に突然、ローマ時代の勇士が現れたのだ。勇士の服装の豪華な色彩まではっきり見える。夢なのか現実なのか。30秒も経って、ふと、かき消えた。折りよく巡回してきた看護師にその話をしたら、相手にもされなかった。
 ローマ時代の勇士は以来、一度も現れなかったが、振り返ってあの日の病状は最悪だった。判断力を失った頭で、次は地獄の亡者が現れるのか、と思い悩み、どんな妄想に襲われても絶対に負けないぞ、と変に覚悟したものだ。
 体調が少し戻り始めたころ、若い頃の事件記者時代の夢を見た。何か大きな事件が起こり、警察担当の四人がデスクを中に話し合っている。
 「なぜ抜かれたのかっ」
 デスクの怒鳴り声に身を固くし、夢中になって駆けだす四人。事件の状況も、事件現場も、何もわからないままに、若い記者たちはどこへ向かおうとしているのか。
 はっ、と意識が戻った。なぜこんな幻のような夢を見たのか。振り返ってあの時代は、他社との激烈な競争の連続だった。抜かれてなるものか、という思いだけで、無我夢中、一直線に生きた日々だったように思う。その生真面目さに、いじらしささえ覚えて、胸が熱くなった。
 朝が来た。午前7時、病院の1階のコンビニが開く。きょうも昨日と同様に、よろける身で新聞を買いに行く。テレビもインターネットもいいけれど、私にはやっぱり新聞がぴったりくる。世間から置いてけぼりにされたわが身を苦笑しながら、ベッドでゆっくり新聞の頁をめくる。




2022年3月4日


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