新老楼快悔 第028話 熊に襲われ10人が死傷
令和の時代になったのに、札幌の街に、熊が出没している。テレビ画面で悠然と歩き回る姿を見るたびに、百年余りも前に道内で起こった大惨事が蘇る。翻って開拓期は、入植した人間と、住処(すみか)を追われた熊との生存権争いの日々だった。
その事件は大正4年(1915)12月9日朝、苫前郡苫前村三毛別御料農地の開拓地で起こった。大熊が突然、一軒の開拓農家の窓を破って侵入し、幼い男児(6歳)を殴り殺し、母(34歳)を襲い、その遺体をくわえて山林の中へ立ち去ったのだ。
急報を聞いた開拓集落の人々が決死の表情で集まり、翌日朝、血痕跡を頼りに探索したところ、山中のトド松の根元に変わり果てた母の遺体を発見した。遺体を引き取りわが家に戻し、その夜、同家で2人の通夜が行なわれた。その最中に再び大熊が現われ、同家に乱入して柩をひっくり返して立ち去った。
集落は騒然となり、男たちは女子供を安全と思われる家に集めて避難させた。ところが同日夜、大熊がその家を襲い、腹の大きい女性(34歳)を殴り倒して腹を割き、音を立てて食べた。さらに逃げる女子供を殴り殺すなどして立ち去った。
これは奇跡的に助かった男児の証言による。死者は嬰児も含めて7人、負傷者は3人(後に1人死亡)にのぼり、世界の熊害史上最悪の被害となった。
羽幌警察分署長は、急遽警官や消防団員、村人などを動員して現場に急行し、山狩りを開始した。この間にも大熊は沢伝いに点在する8軒の家々を襲って、雑穀類や身欠きニシンなどを奪って食べた。討伐隊が必死に追跡したが、大熊は素早く身を隠すので、見つけ出すことができない。
最初の事件から5日目の13日朝、大熊が川の対岸に現われた。翌朝、討伐隊が橋のたもとから狙いを定めて銃を発射すると、大熊は弾丸を食らい、血を吐いてどっと倒れ、絶命した。どよめきが起こった。すると快晴だった天候が突然崩れて暴風雪になり、家屋倒壊、橋の流出、道路決壊が相次いだ。討伐隊は大熊を神社下に運び、その遺体を泣きながら叩いて悔しがった。
同町に残る郷土芸能の熊獅子舞は、悲しい歴史を永遠に忘れまいとして制作されたもので、町の名物になっている。吉村昭の小説『羆嵐』はこの事件をテーマにした作品である。
現場へ続く道は「ベアーロード」と呼ばれ、現場近くに「三毛別羆事件跡地」の碑が立っており、襲われた開拓小屋が復元され、小屋を襲う熊の模型が設けられている。熊を射止めた橋は「射止橋」と呼ばれて現存する。
古丹別神社下には「熊害慰霊碑」が立っている。犠牲者の名が刻まれているが、「胎児殿」の文字が往時の惨劇と哀しみを伝えて、悲しい。
2022年2月18日
老楼快悔
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