新老楼快悔 第029話 遠くなった下山事件
長引く新型コロナ禍の影響で、多くの人たちが退職を余儀なくさせられ、路頭に迷っているという。こんな報道に、遠い日の「下山事件」を思い出していた。国鉄職員の大量首切りの先頭に立った国鉄総裁が、鉄路で死体となって発見され、未解決のまま時効になった事件である。
話は1949年(昭和24)に遡る。政府は官公庁職員30万人の大量人員整理に乗り出した。中でも日本国有鉄道公社(国鉄、後のJR)は9万5千人と最大で、労組は「首切り反対」を叫んでストライキ突入を決めた。
国鉄側は第一次として3万人余の人員整理を発表するが、その翌日の7月5日朝、首切り側の責任者、国鉄総裁の下山定則(49歳)が行方不明になり、翌6日未明、東京・足立区五反野南町の国鉄常磐線の線路上で轢死体となって発見され、騒然となった。
下山はこの朝、差し回しの自動車で東京大田区の自宅を出発し、丸の内の国鉄本社へ向かう途中、三越本店前で運転手に「5分ほど待ってくれ」と言い残し、店内へ入ったまま行方不明になった。国鉄本社内は騒然となり、要請を受けた警視庁捜査一課は内偵を始めた。新聞社が動きだし、NHKが臨時ニュースを流したので、世間は驚愕した。
夜が更けて6日午前零時25分ごろ、常磐線松戸行き最終電車が東武線のガードを通過する時「轢死体らしいものを見た」と通報。近くの駅員が駆けつけて、ばらばらになった轢死体を発見。落ちていた定期券入れの中から「下山定則」の名刺を見つけた。
捜査は初めから難航し、殺人は自殺か、はたまた事故死かに割れた。捜査一課は「自殺―生体轢断」を主張。だが捜査二課と最高検察庁・東京地検は、左翼分子による犯罪と見て、「他殺―死後轢断」を主張して対立した。
この間に国鉄側は第二次の6万人余の首切りを通告するが、その翌日、三鷹駅構内で無人電車が暴走し、6人が死ぬ「三鷹事件」が発生。さらに東北本線金谷川―松川間で機関車が脱線、転覆し、機関士3人が死ぬ「松川事件」が起こった。
「三鷹事件」と「松川事件」は容疑者として労組員が逮捕されたが、真相は闇の中に。だが下山事件も真相解明に至らず、15年経過した1964年(昭和39)、時効が成立した。
『激動昭和史 現場検証』にこの事件を取り上げるため、現場を訪れた。国鉄からJRに変わった常磐線の北千住駅から、荒川を跨いで1.5キロほど先。いまは東武伊勢崎線の高架が常磐線に十字型にかぶさる形で交差し、常磐線と並行して千代田線が乗り入れていて、首都高速中央環状線が荒川沿いに延びている。当時、田畑とアシの茂みに覆われた寂しい場所だったが、すっかり様変わりしていた。
あの日、総裁はどんな経過でここにきて、轢断されたのか。轟音を立てて通り過ぎる車両を見やりながら、遠くなったその時代に思いを馳せた。
現場の近くに小さな建物があり、片隅の地面に「下山国鉄総裁追悼碑」と横書きに刻まれた碑が置かれていた。誰が供えたのか、枯れ切った供え花があり、事件が歴史の深い闇に埋もれていくのを実感させられた。
2022年2月25日
老楼快悔
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