新老楼快悔 第024話 永山則夫事件に思う
少年法改正案が閣議決定されたと新聞(2021年2月19日夕刊)が報じた。今後は18、19歳は「特定少年」と位置づけられるという。民法の成人年齢が同年4月に、現在の20歳から18歳へ引き下げられるのに合わせた措置という。
時代が大きく変化していく中で、今なお甦るのが永山則夫の連続射殺事件だ。逮捕された時の年齢が19歳10か月。警視庁は「事件の性格上、公表する」として実名を発表し、報道各社もそれに倣った。
少年犯罪の実名報道として話題になった永山事件の内容は、こうである。
第一の事件は1968年(昭和43)10月10日深夜、東京・芝のホテル構内で、警備員(27歳)がピストルで射殺されたもの。その4日後に京都市の神社境内で警備員(69歳)が頭部を撃たれ絶命。摘出された弾丸が第一事件と同じものと判明し、「広域重要事件108号」として全国手配に。
続いて10月27日早朝、函館市に近い七飯町の農道でタクシー運転手(31歳)が射殺され、現金が奪われた。続いて11月5日未明、名古屋市港区の路上でタクシー運転手(22歳)が頭部を撃たれ死亡、売上金が奪われた。出没するピストル魔に国内は震撼した。
1969年(昭和44)4月7日未明、東京・千駄ヶ谷の英語学校内に賊が侵入、警備員に発見され、ピストルを乱射して逃走。だが警察官の職務尋問に犯行を自供した。
取り調べから永山の劣悪な家庭環境が明らかになった。網走市生まれで8人兄弟の第7子(4男)。父は賭博や酒で金を費やし、食べ物も満足にない毎日。母は2女、4女らを連れて実家の青森へ。長女は精神病院に入院。父も立ち去り、家には小学生の3女を頭に、2男、3男と5歳になる永山が残された。
母に引き取られた永山少年は、小学生から新聞配達を始め、中学も欠席を重ねつつもやっと卒業し、集団就職で上京、商店に勤める。だがすぐ辞めて横浜に移り、沖仲仕をしながら定時制高校で学ぶ。仕事を転々とするうち横須賀米軍キャンプに侵入して小型ピストルを盗み、これを用いて犯罪を重ねたのだった。
裁判は10年間に及んだ。1979年(昭和54)、東京地裁は永山に死刑の判決を言い渡したが、二審の東京高裁は「家庭環境が劣悪だった」として「無期懲役」に。しかし最高裁はこれを破棄。東京高裁は審理をやり直し、改めて死刑を言い渡した。最高裁も1990年(平成2)、これを支持して死刑が確定した。
獄内の永山は執筆活動を続け、1971年(昭和46)に『無知の涙』を出版。さらに小説『木橋』で新日本文学賞を受賞。この間に『無知の涙』を読んだアメリカ在住の日本人女性からの便りに励まされ、日本に戻った女性と面会し、獄中結婚。だが後に協議離婚。
永山が処刑されたのは1997年(平成9)8月1日。女性は永山の願いを叶えるため、弁護人らとともに網走へ赴き、永山の遺骨を網走の海に撒いた。
この経過を北海道新聞の嵯峨仁朗記者が『死刑囚永山則夫の花嫁「奇跡」を生んだ461通の往復書簡』(柏艪舎)の表題で発刊した。同書を読むと若き死刑囚と複雑な家庭で育った女性の、互いの「生」への思いが交錯して、胸を突かれる。
2022年1月21日
老楼快悔
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