新老楼快悔 第022話 少年からの便り
最近、『「アイヌ新聞」記者高橋真』(東京・藤原書店)という本を出版した。虐げられたわが民族を救おうと、たった一人で「アイヌ新聞」を作り続けた若きアイヌ民族の記者の生涯をまとめた作品である。
意外といおうか、発刊後、多くの新聞社が紹介記事や批評文を掲載してくれた。その原因が、アイヌ施策推進法の成立により、アイヌ民族の存在に光が当てられたことによるのは明らかだろう。
高橋真記者と出会ったのはいまから60余年前、釧路市役所の記者クラブ室。帯広から釧路へ転勤になり、教育と遊軍担当になった時だ。出会ってアイヌ民族の記者がいることに驚いた。高橋記者はいつも記者室内で、電話で取材して記事を書いていた。記者は相手と会い、その目を見ながら話を聞け、と先輩から言われてきただけに、その姿に腹立たしさを感じていた。
ある日“事件”が起こった。簡単な記事を書き上げた私は、それを壁掛けの原稿ポストに入れて記者室を出た。室内には高橋記者しかいなかった。部屋を出てすぐ、用事を思い出し、戻った時、意外にも高橋記者が私のいた机に移動し、私の原稿を見ていたのだ。
「なに、やってんだ」
私の怒鳴り声に驚いて高橋記者は、原稿を素早くポストに戻した。それを奪うようにして取り、同じ言葉を重ねた。すると高橋記者は、
「後から来た者に負けられない」
吐き出すように言ったのである。
盗人猛々しいというのはこのこと。腹が立ったが、ぐっと抑えた。私はこの言葉を、言葉通り、転勤してきたばかりの若い記者に負けられない、そう解釈した。だが実は違っていた。高橋記者は敗戦直後の1946年(昭和21)に、「アイヌ新聞」を発行し、その一方で占領軍司令部のマッカーサー元帥に「アイヌ民族の救済」の便りを書くなど、民族の解放を叫び続けてきた人物だった。「後から来た者」とは、後から北海道にやって来た和人たちを指したものだったと知るまで、長い時間を要した。電話取材をするのも、相手にアイヌ民族と知られないための防衛策と知った。
異動で各地を回り、1976年(昭和51)春、札幌に着任した直後、書店で『アイヌ伝説集 阿寒地方編』の著者名に「アイヌ高橋真」とあるのを見て、はっとなった。そのころ高橋記者は帯広にアイヌ問題研究所を設け、出版活動を続けていた。私は著書『北海道祭りの旅』に入れるアイヌ民族の祭りの取材を始めていた。
久しぶりに会って話を交わそうと思った時は遅かった。その年の7月、逝く。愕然となった。高橋真記者の生涯を書きたいと思い続けて、長い歳月が過ぎた。
アイヌ施策推進法が成立し、第一条に「アイヌは先住民族」と明記されたのは2019年(平成30)。ウポポイがオープンした翌年は偶然だが高橋記者の生誕百年になる。
若き日の鮮烈な思い出が、いまになって私を突き動かしたというべきか。『「アイヌ新聞」記者高橋真』という得難い作品がやっと生まれた。
著書『「アイヌ新聞」記者高橋真』
2022年1月7日
老楼快悔
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