新老楼快悔 第020話 一枚の古文書に思う
高齢になって心配なのが、わが部屋を埋める書籍や資料類。この始末をどうするべきか、妙案も浮かばぬまま、古資料の束をひっぱり出しては捨てていく……。先日は、たった一枚の古文書に惹かれて読むのに丸2日も費やした挙げ句、またもとの位置に戻すという事態になってしまった。
その古文書は、新選組の取材時に入手したものだから、もう30数年も前だ。改めて目を通すと、住民届書らしく、冒頭に「十一番屋敷居住」とあり、次に、
「父修理亡佐久間恪」
と記されている。
佐久間恪の「住民届書」
修理とは元治元年(1864)7月、京都・木屋町で暗殺された佐久間象山の通称。恪(いそし)はその一子で、恪二郎(かくじろう)が元名。まだ17歳だった。
佐久間象山
佐久間恪
恪は父亡き後、三浦啓之助の変名で仇を探すが、それを知った会津藩士山本覚馬に勧められて新選組局長近藤勇の食客になる。だが大酒飲みで、女遊びも目に余るというので、副長の土方歳三が「局中の若い隊士に示しがつかない」と嘆いた話が伝わっている。
恪のこの行動を諫めたのが象山の高弟だった越後長岡の小林虎三郎ともう一人、勝海舟だ。海舟は象山の教えを受けたうえ、「海舟書屋」の書を贈られた。以後、号を海舟とした。そんな関わりから実妹が象山の二度目の妻になっている。この古文書にも、
「母 志ゆん(順) 駿河国静岡県士族勝安房妹元治元年甲子六月ヨリ同人方ニ寄留 天保八年五月出生」
と見える。象山が殺された時は28歳。
戊辰戦争が起こり、恪は会津へ行くのを辞め、西郷隆盛に従って薩摩へ赴き、薩摩海軍に入隊、新政府軍として船で越後松ヶ崎に上陸して、庄内方面を転戦した。後に明治政府から恩賞を受ける。
古文書は恪のそれ以降のことをこんな文面で綴っている。
「明治四末年五月ヨリ英学修行ニ東京府下三田二丁目福沢諭吉方ニ寄留」
恪は維新戦争終結後にイギリスに赴き、その後上京して、何と福沢宅に住んでいたのである。確かにこの時期、恪は海舟の援助で慶應義塾に入学しているから、福沢宅に身を寄せたのも海舟の計らいだろう。この時、恪は24歳。福沢37歳。海舟49歳。
恪は明治6年、慶應義塾を卒業すると同時に司法省に出仕し、判事補に任ぜられ、その後、伊予松前裁判所(愛媛県松山市)に転勤する。だが、突然、亡くなってしまう。宴会に出されたウナギを食べたのが原因だった。古文書には、
「明治十年二月廿六日於テ松山裁判所在勤中病死」
と見える。まだ29歳の若さだった。
恪には妻静枝との間に長男の継述がいたが、その二年後に亡くなった。これも古文書に記されている。こんな貴重な古文書をなぜ途中で投げ出したのか。おそらくその時の取材対象から外れていたので、不要と判断したのだろうが、思えばひどい早とちりだ、と反省した。そして一枚の古文書の持つ記録の底知れなさを、またも思い知らされた。
象山が勝海舟に贈った書「海舟書屋」の額
2021年12月22日
老楼快悔
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