新老楼快悔 第018話 渋沢栄一から佐藤昌介への便り
年の瀬が押し迫り、部屋の整理をしていたら、意外なものに引きつけられた。北海道史研究協議会が30年ほど前に出した『古文書の手びき(増補版)』(解説・高倉新一郎)の中に、いまNHK大河ドラマに登場している渋沢栄一が東北帝国大学農科大学学長、佐藤昌介に宛てた便りが載っていたのである。佐藤は後に北大総長となる人物である。
以前は何気なく見過ごしていたのに、と反省しながら、札幌農学校が東北帝国大学農科大学を経て北海道帝国大学へと変わっていく時代の、関係者の動きの側面を垣間見て、思わず前のめりにさせられた。
便りは大正5年(1916)11月17日のもので、佐藤学長が東京の渋沢宅を訪問して相談したことに対する、渋沢のいわば「断り状」である。この時期、北大はまだ東北大学農科大学だったが、開道50年を控えて、独立への世論が急速に膨らんでいた。文面にはないが、おそらく経済的援助を求めたものと推測できる。この頃、渋沢は財界の大物といわれ、北海道の産業投資に率先して尽力していた。
便りによると渋沢は、すかさず王子製紙専務取締役藤原銀次郎や北海道炭礦汽船株式会社専務取締役磯村豊太郎と相談したが、二人の考えは、佐藤学長や札幌区長阿部宇之八の意見と異なっていた。このため要望に応えることは難しいとしたうえで、
「磯村氏もいずれ北海道へ行くであろうし、藤原氏も工場巡視で赴くはずだから、その時、直接会って話し合ってほしい」
としたうえ、そして追伸として、札幌区長からはその後、何の話もないので、その時の書類を同封するので、あなたから区長に返して欲しい、と書かれている。
断りの背景となった佐藤学長や阿部区長の考えとはどのようなものかというと、農科大学のほかに、新たに医科大学を設け、複数の学部をもつ帝国大学として独立させたいというもの。折しも区立札幌病院が改築期になっており、これを医科大学の附属病院として寄付しようという機運さえ高まっていた。
この便りの後の歴史を見ると、大正6年(1917)札幌区議会は、札幌医科大学の新設費を議決。一般からの寄付金も増加したうえ、北海道地方費から10万円、さらに三井、三菱などの財閥など多額の寄付金が集められた。もとより渋沢が背後で応援したのは想像に難くない。
翌大正7年(1918)、北海道帝国大学が発足し、初代総長に佐藤昌介が就任した。道内は喜びに沸き返った。その直後に医学部が設置され、以後、工学部、理学部が置かれ、戦後に法文学部が生まれることになる。
一枚の古い便りから、思いもかけず、いまは亡き弟(戦治・北大文学部卒)の面影を偲ぶ一時ともなった。
2021年12月8日
老楼快悔
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