新老楼快悔 第017話 豊川稲荷の石垣に彫られた名

新老楼快悔 第017話 豊川稲荷の石垣に彫られた名


 札幌市中央区南7条西4丁目に赤い鳥居の豊川稲荷札幌別院が建っている。別の名を「玉宝寺祖院」という。神仏混淆というべきか。神も仏も存在する社(やしろ)なのである。かつて「花街の守り神」と呼ばれ、すすきの遊廓をはじめこの地域で働く人たちの信仰を一身に集めたという。
 豊川稲荷が建立されたのは明治31年(1898)。かつてのすすきの遊廓の南側に位置する。遊廓の角地で酒屋を営む波多野与三郎が「すすきのの心のよりどころに」と遊廓経営者や活動写真館らに呼びかけたところ、経営者や信者たちだけでなく、遊廓で働く遊女までもが寄進した。感激した波多野は豊川稲荷本山から分霊を受けて、この地に本殿を建設したのだった。
 境内に現存する古い手洗い鉢に「明治十六年四月奉納」と刻まれているので、開拓期の初めのころからここに祠があり、料亭や遊女屋経営者らの「祈りの地」であったことを伺わせる。
 本殿を取り巻くように石垣が設けられた。その石垣がいまも残っている。石垣の一つ一つに寄進者の名が見える。遊廓名と経営者名、酒屋名などが並んでいて、その時代を彷彿させる。
 目を引くのは「新見番」「町見番」「旧見番」と刻まれた対になった門柱で、そこに芸妓の名が並んでいる。見番とは芸妓を置き、客の要請により酒席にはべらす派遣所だ。
 記録をひもとくと明治23年(1890)に遊廓内に芸妓数人を置いたのが始まりで、これが後に「旧見番」とされた。その後、明治29年(1896)に「新見番」が誕生し、本殿が建設された明治31年に「町見番」が設けられた。このあたり花街とのつながりが深かったことを示している。
 現在は看板の陰に隠れて見えないが、「新見番」の芸妓の筆頭に刻まれているのが「黒清」。開拓長官から後に総理大臣になった黒田清隆の愛妾といわれた女性で、本名小林キヨ。2人の出会いは明治23年頃と想定して、黒田51歳、黒清19歳。黒田はたまに札幌に来ると呼び寄せ、酒宴を開いたという。
 黒清の晩年は決して恵まれたものではなかった。足が悪く、人の助けを借りて座敷に出て、得意の三味線を聴かせたという。最後も判然としない。ただ1枚残された写真を見ながら、最後まで愛する男の名を源氏名にして、花街で生き抜いた女の心意気を感じて、脱帽した。





2021年11月26日


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