新老楼快悔 第013話 咸臨丸、サラキ岬に沈んで150年
咸臨丸が木古内町サラキ岬沖で沈没して今年で150年。新型コロナ感染症の影響で記念式典などはすべて中止になったが、主催者の事業実行委員会から記念誌と記念講談を収録したDVDが届いた。記念誌を見ながら、咸臨丸の取材に飛び回った遠い日を思い浮かべていた。
別の取材で木古内町を訪れ、サラキ岬に立つ「幻の咸臨丸、ここに眠る」の標識を見たのは昭和47年(1972)頃だから、もう半世紀も前。日本人だけで太平洋を渡った栄光の船の終焉の海と知り、目をぱちくりさせたものだった。
それから20年もの歳月が流れて、岡山県の取材を終えて、瀬戸内海に浮かぶ本島(香川県丸亀市本島町)に渡り、いまは記念館になっている塩飽勤番所を見学した。そこに咸臨丸乗組員が身につけた装束や土産に持ち帰った製品に混じって、帆仕立方水夫、石川政太郎の「日記」が置かれているのを見た。
その瞬間、サラキ岬沖で沈没した咸臨丸と結びついた。惹かれるように日記の頁を開いた。その最期の頁に二つの墓の絵が描かれていて、目がクギづけになった。栄光の陰で若い二人の水夫がサンフランシスコで亡くなっていたとは。
帰宅するなり、急ぎ咸臨丸の経緯を調べだした。咸臨丸はオランダで造られたわが国初の帆船軍艦で、日米修好通商条約調印のため、米船ポーハタン号に乗船した正使の随伴船として、副使の木村摂津守を乗せた太平洋を航海した。艦長は勝海舟。
その足跡を追って札幌の北海道古文書館に出向きその最後となった記録を入手し、長崎、東京、神戸、神奈川、静岡、下田など国内だけに留まらず、オランダのキンデルダイク造船所、アメリカ西海岸のサンフランシスコまで及んだ。この調査は退職の後まで続くことになる。
こうして著書『咸臨丸、栄光と悲劇の5000日』(北海道新聞社刊)が発刊されたのは平成12年(2000)のこと。
取材の段階でオランダ在住の松本善之さんと知り合い、出版後は咸臨丸子孫の会の佐々木寛会長、小杉伸一事務局長らと出会ってサラキ岬を案内するなどした。木古内町には咸臨丸のものと思われる錨が引き揚げられて現存しており、地元に招かれて講演する機会にも恵まれた。
ほどなく地元町民が結集して「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」が設立され、咸臨丸まつりが誕生した。会員たちによる岬の整備が継続して行われ、咸臨丸の模型をはじめ、慰霊碑、説明看板などが次々に設置された。松本さんの尽力でオランダからチューリップの球根が届けられ、荒れ果てていた岬はチューリップの花の香あふれる観光地に一変した。
近年、咸臨丸の海中探索が行われ、痕跡も見つからなかったが、オランダ政府は東京海洋大学と協力して海底調査を実施し、日本船舶海洋工業会は咸臨丸を「ふね遺産」に指定。会員はもとより町民や子孫の会の人々を喜ばせた。
終焉150年を経て、北の海に刻んだ咸臨丸の歴史がさん然と輝きだした。そんな思いが私の胸を熱く揺するのだ。
2021年11月5日
老楼快悔
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