新老楼快悔 第011話 バーブ佐竹との出会い
バーブ佐竹という歌手をご存じだろうか。「女心の唄」という歌でなかなか人気があった。亡くなってもう20年近くになる。なぜそんな古い過去を話そうとするのか。実は彼は元北海道新聞釧路支社に勤めていたといったら、驚かれる方も多いだろう。
バーブの存在を意識したのは1958年(昭和33)春、筆者が釧路支社に転勤してほどなく。市政記者クラブに所属し、主に遊軍の仕事をしていた。遊軍とは早く言えば街ダネ探しである。
そんな折り、自社の工務局員で、バンド演奏を楽しんでいる若者がいると話を聞いた。朝刊の仕事は真夜中だからそうはいかないが、夕刊担当の日は早く終わるので、夕方から歌唱や演奏の練習ができるという。
取材をしようと思い、印刷工場へ赴いたところ、つい先日、退社した、歌手になる夢を抱いて上京した、と知らされた。これが佐武豊、後のバーブ佐竹。まだ22歳だった。
しばらく下積み暮らしだったバーブが、「女心の唄」を歌い、大ヒットを飛ばす。特異な風貌と独特な歌声がテレビから流れ、それがあの佐武豊だと知って、内心、手を打って喜んだ。
札幌本社に移動した筆者がUHB北海道文化放送に出向して間もなく、バーブと出会うことになる。道新グループは毎年、新年会を開き、その宴会場に著名な歌手を招くのを通例にしていた。1981年(昭和56)の新年会はバーブ佐竹と石川さゆりである。
初対面となるバーブと会うなり、同じ社員として釧路ですれ違いになった話をしたら、細い眼をより細くして笑い、すぐ打ち解けた。バーブはこもごもこんな話をした。
「道新を辞めてから、上京したが、芽が出なくて……。会社を飛び出した人間なのに、こうして呼んでもらった。感謝しています」
その時に撮影した写真が一枚残っている。左から2番目がバーブ佐竹、その隣が小生、その隣が石川さゆり、両端はそれぞれのマネージャー。
以後、機会があるごとに会った。その頃、札幌のエンペラーというキャバレーが、週変わりで歌手を招いており、バーブはほぼ毎年のように姿を現した。そのたびに楽屋へ押しかけ、歓談した。
なぜこんな芸名にしたの、と問うと、意外な答えが返ってきた。本名の佐武は「さぶ」と呼ばれるのが嫌で佐竹とした、竹の英訳がバンブーなのでバーブにした。作曲も手掛けているが、こちらはシナ・トラオの名で書いている……などなど。少し照れた表情を見せながら語る1年後輩のバーブに親近感を抱きながら、杯を傾け合った。
「酒とネオンと」「男の涙をうたう」など男が歌う女唄がヒットし、その半面で「顔じゃない、心だよ」といって、牧伸二、菅原洋一と「モスラ会」なるものを作るなど話題が絶えず、いまや絶頂期にいた。
突然、訃報が飛び込んできた。2003年12月5日、多臓器不全で死去。享年68。呆然となった。そして、人間の出会いの不思議さ、別れの不自然さを突きつけられて、身悶えした。
2021年10月22日
老楼快悔
トップページ
柏艪舎
トップページ