新老楼快悔 第008話 品川弥二郎って、知っていますか
品川弥二郎って、知っていますか――。そう問われて、歴史好きな人なら、「宮さん、宮さん」の歌を作った人かな、と答えるかもしれない。
宮さま 宮さま 御馬のまへに ちらちらするのはなんじゃいな トコトンヤレトンヤレナ
ありは朝敵 征ばつせよとの 錦の御はたじゃ知らなんか トコトンヤレトンヤレナ
実はその通りで、しかもこの人物、明治2年(1869)4月9日未明、新政府征討軍指揮官の一人として軍艦ヤンシー号に乗り、甲鉄号、春日丸など9艦とともに乙部村沖の館ノ岬から上陸、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍と箱館戦争を戦った長州藩士なのである。
乙部を上陸地に選んだのは、相手との正面衝突を避けて守備の手薄な地帯を狙ったためだ。その弥二郎が明治維新後に、上陸地の乙部村の土地を大量に所有し、会社を設けて開拓を進めていたとは。『乙部町史(下)』を開くと、「品川弥二郎」とか「品川牧場」と書かれた文面が随所に見られるのだ。
弥二郎が乙部に惹かれたのは、蝦夷地に攻め込んだ時の村人の好印象が原因とされる。『前田雅楽届書写―箱館海戦史話』によると、沖合に集結した官艦は春日丸を先頭に陸地に接近し、館の岬に向け発砲しようとした時、乙部の漁師14、5人が舟で漕いで近づいてきた。村役の近藤五右衛門らで、以下のように述べた。
賊五、六名、今暁迄当所ナラビニ熊石ニ出張、遠見致シ居リ候処、官軍之来港スルヲ見、忽チ江差之方ヘ逃去、熊石村モ同様、賊一人モ不居合(いあわせず)候
実は春日丸には、前年の旧幕府軍の来襲時に負傷して、乙部に逃れて村人に救われた者2人が案内人として同乗していた。この2人に引き合わされて五右衛門は信用され、上陸が始まったのだった。そんなことでヤンシー号の弥二郎ら官軍の幹部らは、乙部の住民に好意を抱いたのとされる。
箱館戦争が終わり、北海道開拓が進められる中、農商務大輔となった弥二郎は乙部村を意識し、後に姫川、千岱野地域の膨大な未開地を所有し、品川牧場と名付けたのである。
弥二郎亡き後、長男弥一は家族揃って移住し、本籍を乙部村に置いた。だが2年足らずで札幌へ移った。会社の経営不振が原因とされる。
それにしても歴史とは意外な展開を見せるものだ。榎本武揚が新政権に対抗して、大勢の不満武士と共に蝦夷地へ脱走して、蝦夷島臨時政権を立てた。その政権を「朝敵」として打ち倒した新政府の高級幹部が、同じその土地を開拓したのだから。
弥二郎が箱館戦争で初めて踏んだ乙部町の館の岬の光景を見つめながら、弥二郎の生涯をどう書くべきかと、首をひねっている。
2021年9月24日
老楼快悔
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