新老楼快悔 第002話 遠い日の祖父の死
祖父の嘉吉が亡くなったのは1953年(昭和28)1月、私が19歳の時だった。そのころわが家は不幸続きで、父が死んで1年半。祖母が亡くなって7回忌法要を明日に控えて、合田家から嫁いだ女性(叔母)たちがわが家に集まっていた。
寡黙な祖父は、その日もいつものように茶の間のストーブの前に座っていた。そのうちゆっくり移動してきて私の前に座り、「脈をみてくれ」と言った。頑健な体で、風邪ひとつひいたこともない祖父だけに、不審に思い脈をとろうとしたが、うまくとれない。
「脈、見つからないよ」と何気なく告げた。後で思うとあまりにも不用意すぎる言葉だった。祖父は「そうか」と小声で言うと、急に私の体に崩れるように倒れ込んできた。
「爺やん、爺やん」と叫んだが、それっきり動かなくなった。
母や叔母たちが驚いて駆け寄り、口々に「早くっ、水を」と叫んだ。台所へ走り、水を汲み、取って返して脱脂綿に水を湿らせ祖父の口許に当てた。だがそれっきり。これが祖父の最期だった。享年78。
祖父が故郷の香川県から北海道へやってきたのは、除籍簿によると1895年(明治28)。数え年21歳。長沼、沼田、多度志(深川)などを経て上砂川に移住している。この間に祖母と結婚し、私の父や叔母たちが生まれ、さらに父と母が結婚して私が生まれた。
この間、どんな暮らしをしてきたのか。祖父はいっさい語らなかった。愚痴も聞いたことがないし、涙を見せたこともない。せいぜい耳にしたのは「しょっぱい川を渡ってきた」ということくらいだった。しょっぱい川とは津軽海峡を指しているのは明らかである。
姉から聞いた話だが、ある時、病床の祖母が祖父に「故郷に帰りたい」と言ったところ、「馬鹿こけ。だれが待ってるもんか」と吐き捨てるように返したという。
次男だった祖父は、故郷を捨てて、新天地とうたわれた北海道へやってきて、言語に尽くせぬ苦労を重ねてきたはずだ。だが「なぜ、故郷を離れたの?」「どうして北海道へきたの?」と問うても、答えなかった。
祖父は持ち前の旺盛な体力で、数々の力仕事をこなしてきた。そして不満の言葉も何一つ残さず、大樹が崩れるように忽然と逝った。叔母たちは「跡取りの孫に抱かれて逝ったのだから、幸せな最期」と言ったが、釈然としないものが胸に残った。
道内の市町村史をめくると、古老の話が掲載されている。想像を絶する自然との苦闘が主だ。だがほとんどの開拓者たちは、祖父と同じように不満ひとつ言わず、北の大地に骨を埋めた。
祖父の命日がくるたびに、あっけないほどの最期となったあの日が甦る。なぜ物言わぬままに逝ったのか。そう反芻しつつ、先人たちによって拓かれたこの大地に、いま生きていることに感謝しなければ、としみじみ思う。
2021年8月13日
老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ