新老楼快悔 第001話 知床岬の遭難船の慰霊碑

新老楼快悔 第001話 知床岬の遭難船の慰霊碑


まえがき
「老楼快悔」を読んでいただき、ありがとうございます。先週で一区切りつけたつもりでしたが、さまざまな声が寄せられまして、結局、もう少し書かせて戴くことにしました。ご感想やご叱声などいただけましたら幸いです。

ノンフィクション作家 合田一道

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

最近、思いがけないことにしばしば出会う。先日は拙著『生還-「食人」を冒した老船長の告白』を読んだ方から、版元ドットコム――出版社の柏艪舎を経由して、次のようなメールが届いた。

『生還』を読み、感動しました。昔、私は(事件現場の)ペキンノ鼻で昆布漁師をしておりました。生き残った徴用船の船長がペキンノ鼻の慰霊供養をする漁師に感謝しているとあるのは、私の祖父と叔父のことです。合田一道先生にお知らせください。

差し出し人は中標津町の石村勝彦さん。読者にはこういう方もおられるのかと思いつつ、感謝の返事を伝えた。すると間もなく応答がきた。これによると石村さんの祖父菊三郎さんは樺太からの引揚者で、羅臼に入植し、昭和30年にペキンノ鼻に昆布小屋を構え、徴用船海難犠牲者の供養塔を立てた。だが昭和45年頃亡くなり、次男である叔父の清さんが供養塔の管理を引き継いだが、20年前に亡くなり、その段階で供養は途切れた。
石村さんの父朝勝さんは昭和40年に現場近くに昆布小屋を建て、家族も泊まり込みで昆布漁をした。幼かった石村さんは磯舟に乗って遊び回ったが、母は近くにある「人食い岩」を決して見なかった記憶があるという。
成人した石村さんは父の後を継ぎ漁師になるが、20年前に辞めて現在は中標津町で暮らしている。56歳。拙著を読んで祖父、叔父が供養碑を守ってきたのを思い出し、羅臼の海上遭難慰霊碑前で近く「徴用船遭難犠牲者並びに羅臼海難犠牲者の慰霊祭」を催すことにしたという。3通目のメールにはこう書かれていた。
船長の「人は死にたくても簡単に死ねるものではないんだ。どんなに生きたくても生きることができない人がいるようにね」という言葉に絶句しました。また船長が私の祖父や叔父の供養に感謝しているという意味がわかった時、雷に打たれたようでした。この度の供養は私の使命と直感しました。
4通目のメールには、慰霊祭のくわしい内容が伝えられ、さらに「護摩木に供養する亡き7人の名を書いて送って戴きたい」と連絡が入った。その展開の速さにいささか驚いた。
数日して真新しい護摩木7枚が返信用の封筒とともに送られてきた。合掌しつつ、心を込めて遭難者の氏名を書いた。書きながら亡き船長を思った。頑ななほど私を拒絶していた船長が、7、8年してやっと心をひらき、「知床のペキンノ鼻に供養に行こうね」と約束した時の笑顔。だが体調を崩してついに断念した時の苦渋の顔……。その船長の思いがいま、形を変えて実現するのだ。そう感じた。
この慰霊祭は新型コロナウイルス感染症の蔓延により日延べになったが、7月末に石村さんから分厚い便りが届いた。それによると7月18日に標茶町の川上神社社殿前で「北海道開拓殉難者並びに道東関連戦没者解脱成仏供養」が執り行われたとあり、写真が数枚同封されていた。羅臼における慰霊祭は後日、改めて催すという。



感謝しながら便りを読み返し、ふと、船長が亡くなって何年になるかと指折り数えて、はっとなった。偶然、今年は33回忌に当たる。心が震えた。




 
2021年8月5日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ