老楼快悔 第110話 片腕の墓

老楼快悔 第110話 片腕の墓


 この墓を見た時は、本当に驚いた。拳骨を握りしめた右腕がにゅっと突き出ている。その中央部分に「腕の喜三郎之墓」と刻まれている。何者なのだろう――。ここは東京都南千住の回向院墓所。小塚原と呼ばれ、かつての処刑場跡だ。その墓所に眠る勤皇の志士の墓を取材中、偶然、目にして興味を抱いたのだった。



 調べてみるとこの男、野出喜三郎といい、寛文年間(1661~73)の江戸では名高い侠客の親分だった。子分500人を抱えて数寄屋海岸に住み、「揉め事が起こったら喜三郎に頼め」といわれた。どんな紛争や喧嘩でも、喜三郎の一声でたちまち解決した。
 大店が店開きをする時なども、事前に喜三郎に頼んでおけば、面倒なことは何ひとつ起こらなかった。町奉行までが厄介な事件になると、喜三郎に任せて収束させたという。
 吉原を逃げだした遊女が向かうのは、決まって喜三郎の邸宅だった。喜三郎は女をわが家に置いて、食事を与えたりした。家には女の居候がいつも6、7人いたという。普段から木綿の着物を着て、とくに贅沢することもない。「人の難儀を救うだけ。金銀の望みはない」が信条という。
 そんな折り、神田柳原近くで、吉弥組の者と喧嘩になった。吉弥組の者に何か許せぬ行為でもあったのだろう。喜三郎は刀を振るい、たちまち数人を斬り倒したが、相手に左腕を斬られてぶらぶらになった。
 血だらけになって帰宅した喜三郎は、人に頼んでその左腕を切断させた。見ていた人たちはあまりの豪胆さに、「腕の喜三郎」と呼んだという。
 山東京伝の『近世奇跡考』という本に、腕を切断する喜三郎の絵が描かれており、その雰囲気を伝えている。同書によると喜三郎はその後、僧侶となり、「片枝」と号して諸国行脚に出た。やがて江戸の麻布宮村の本光寺境内に住みついたが、ひっそり亡くなったとある。
 以上から、喜三郎を知る近くに住む人たちの手で回向院に葬られたと推察された。だがここは処刑者が多く葬られており、なぜ墓がここにあるのか、謎めいたものを感じる。
 謎といえば、墓の腕が右腕なのだ。斬られたのが左腕なのだから、本来なら左……、と思いながら、いや、残ったのが右腕なのだからこれでいい、と一人で納得した。
 お参りの人の中に母子連れがいて、墓を見ていた男の子が、私のそばで、「えいっ」と叫んで、いきなり右手を突き出したのには、キモを潰した。


 
2021年7月9日


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