老楼快悔 第107話 牧田重勝という男
北海道の歴史をひもとくと、しばしば思いがけない人物にめぐり合う。例えばその一人が樺戸集治監の看守の牧田重勝である。
牧田は本名を三宅太郎次といい、高田藩の江戸一ツ橋の上屋敷で藩主の小姓を勤めた。戊辰戦争が起こると、彰義隊のメンバーとして上野の戦いに参戦するが、敗れて榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に加わり、高雄艦に乗艦して蝦夷地へ向かう。だが時化に遭遇して断念する。
その後、警視局巡査になるが、辞めて北海道へ渡り、新設された樺戸集治監の看守になり、牧田重勝と名乗った。「明治十六年一月一日月形寄留」の古文書が残されている。この時期、新選組の永倉新八改め杉村義衛も看守をしていた。かつては朝敵、逆賊とされた仲。互いに素性を明かし、戊辰戦争のことどもを語り合ったものと推測できる。
牧田はやがて厚田村に移り、ニシン場の帳場になる。たまたま脱獄囚が逃げ込んだのを、剣を振るって取り押さえたので、浜の話題になった。村人たちの要請で「直心館」という道場を設け、若者たちに剣術を教えた。
大正二年(1913)五月。札幌で開かれた剣道大会の時、牧田は剣術の指導者として出席した。晩年の永倉も来場しており、仲間六人と一緒に市内の写真館で写真を撮影した。その写真が現存する。
厚田村にもう一人、かつての彰義隊士でいまは漁場の親方の梅谷十次郎がいた。梅谷も上野の戦い、箱館戦争に敗れて戦線を脱出し、ここまで逃れてきたのだった。牧田と出会ったかどうか記録がないので不明だが、もし会っていたら、どんな話をしたであろうか。
この十次郎の孫が作家、子母澤寛、本名梅谷松太郎である。幼かった子母澤は祖父の股ぐらに入りながら、上野の戦いや箱館戦争の話を聞かされた。敗れた者への哀感が後に『新選組始末記』や『勝海舟』などの作品に投影されることになる。
祖父をモデルにした作品『厚田日記』の冒頭部分を刻んだ「子母澤寛文学碑」が厚田公園に立っている。
箱館戦争の敗残者、江戸の侍が、蝦夷石狩の厚田の村にひっそりと暮らしていた。
碑の文面を読みながら、北海道の歴史に関わった名もなき人々の存在を思うのだった。
2021年6月11日
老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ