老楼快悔 第100話 新選組の隊士が開拓使にいた
京都を舞台に殺戮の剣を振るった新選組。その隊士が開拓使にいた。しかも全部で五人もいたとは。
名前を挙げると加納道之助(鷲雄、通広)、阿部十郎(隆明)、足立林太郎(民治)、三井丑之助(牛之助)、それに樺太開拓使にいた前野五郎。この人たちが黎明期の札幌の街を歩いていたと思うと、不思議な感慨にとらわれる。
加納道之助と阿部十郎は、新選組参謀の伊東甲子太郎の一派で、御陵衛士に任じられ、脱退した。近藤勇は内心これを許さず、伊東を欺いて呼び出し、酩酊させて暗殺。一派は以後、近藤を仇、とつけ狙う。
戊辰戦争が起こり、加納は薩摩付属になり、下総流山の新政府軍本陣に、大久保大和の変名で出頭した近藤勇の正体を見破り、板橋の断頭台へ送り込む。
阿部は新政府軍の赤報隊二番隊として京都を出立するが、途中、帰郷命令が出て引き返す。だが一番隊の相楽総三はそのまま進み、下諏訪で「ニセ官軍」として処断される。
加納と阿部が「薩摩士族」として開拓使に入ったのは明治四年。東京勤務から加納は七重の農業試験場へ。阿部は「佐賀の乱」で新政府軍の中隊長として出陣。その後、札幌へ移り、ともに勧業課に勤務し、課長の村橋久成の部下として勤務する。
退職後、加納は札幌で物産会社を経営。阿部は北7西5の果樹園を経営し、かたわら北海道果樹協会を設立して理事となり、果樹栽培に尽力した。後に東京へ移るが、村橋の不慮の死を知り、改めて葬儀を行った。サッポロビール博物館に過去帳がある。
足立は北1東3、4で札幌製糸会社を興して、真綿、生糸、屑糸を製造。第一回札幌区会議員や札幌商工会議所議員になる。札幌区長にも選ばれたが、これだけは固辞した。
三井については開拓使に入った記録が残る。間もなく辞めて、北海道を去っている。
同じ開拓使でも、樺太開拓使に入ったのが前野五郎。だが岡本監輔の退職に失望して辞職、札幌にきてすすきの遊郭の一隅で貸し座敷を経営した。岡本の千島開拓に応じ、店を閉じエトロフ島へ渡るが、不慮の死を遂げる。晩年の小樽で過ごした永倉新八は「銃の暴発」と記した。札幌市清田区の里塚霊園に墓がある。
開拓使庁舎前を歩く髷姿の役人たちの古写真を眺めながら、動乱の幕末をかい潜って生きた強者たちの息吹を感じつつ、いまの北海道の発展んが、こうした人々により成されたことを、改めて思う。
2021年4月19日
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