老楼快悔 第98話 秩父事件、井上伝蔵の俳句
“秩父事件”といっても、ぴんと来ないかもしれない。明治17年(1884)、埼玉県秩父郡下吉田で秩父困民党を名乗る農民たちが蜂起し、郡役所や警察署、金貸しなどを襲撃した事件をいう。この指導者7人は裁判で死刑判決を受けるが、このうち欠席裁判の1人が北海道に逃れて、伊藤房次郎の偽名で生き抜いたのである。本名を井上伝蔵という。
その伝蔵の死が釧路新聞に報じられたのは大正7年(1918)6月。事件発生からすでに34年の歳月が流れていた。国内は騒然となった。中央紙の記者がはるばる列車と船を乗り継ぎ現地へ入り、後を追った。
伝蔵の逃走の足跡を辿ると、事件後は近くの農家の土蔵内に2年間隠れ、北海道へ渡り、苫小牧、軽川(札幌市手稲)を経て明治22年(1889)、石狩へ。ここで偽名を使い文房具店を開き、町の土地評価委員を務めた。この間に妻を娶るが、生まれた子供は妻の姓を名乗らせた。かたわら俳句結社「石狩尚古社」に入り、柳蛙の俳号で作品を詠んだ。
その俳句が一句だけ石狩市の石狩尚古社に現存するのを知った。同社を経営する中島勝久さんを訪ねて、その色紙を見せてもらう。亡き同志を詠んだもので、見事な筆跡である。
追悼 俤(おもかげ)の眼にちらつくや魂祭 柳蛙
伝蔵が、妻と5人の子どもを連れて北見へ移ったのは明治45年(1912)。理由は定かでないが、追われる身ゆえの判断だったと思える。
ここで伝蔵は雑貨商を営みながら暮らすが、やがて肝臓を患い床に臥す。大正7年(1918)6月23日、伝蔵は妻に話して、国鉄職員となった長男を枕元に呼び寄せ、
「これまで隠してきたが、私は秩父事件の井上伝蔵である。あの事件は政府が高利貸しと癒着して傲慢な政治をしているのを糺すためのもので、暴動ではない」
と述べ、秩父へ行って同志らの冥福を祈ってきてほしい、と頼んだ。家族は驚愕した。
伝蔵は、釧路新聞社通信部の記者に連絡してこの話を伝え、家族揃って写真を撮影して10時間後に亡くなった。新聞報道でそれを知った人々は、あの時の死刑囚が……、と驚きの目を見張った。
葬儀は聖徳寺で粛々と行われた。住職は過去帳に戒名を記した上「秩父事件ノ国事犯人、逃亡北海道ニ入リ……死期ニ至ッテ妻及ビ子ニ実ヲツグ」と付記した。
聖徳寺の現住職にここの過去帳を見せてもらいながら、一人の人間の想像を絶する数奇な生きざまに、震えるような凄さを覚えて、しばし瞑目した。
2021年4月5日
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