老楼快悔 第95話 えっ? “赤い墓”って、なに?

老楼快悔 第95話 えっ? “赤い墓”って、なに?


 函館市船見町の地蔵寺墓地に“赤い墓”が、あたりを睥睨するように立っている。自然石の墓石全体が赤く塗られていて、墓石の表面に「天下の号外屋翁之墓」、右側に本人の戒名、左側に妻の戒名が刻まれ、白ペンキでなぞられている。
 初めて見たら驚くこと請け合いのこの墓、どんな人が眠っているのだろうと想像してしまう。
 墓の主は信濃助治といい、明治27年(1894)初夏、津軽海峡を越えてこの町にやってきた。信濃は日本武士道の神髄は赤心であるとして、衣服からコート、帽子、足袋、下着の果てまで、すべて赤色にした。それでもなお足りず、家も家財も、ありとあらゆるものを赤く塗り上げた。
 稲荷社のような赤い家から、長い髭を蓄え、真っ赤な服装を纏って出てくる33歳の奇人に、函館の人々は驚きの目を見張ったのは言うまでもない。
 日本軍が日清戦争に勝利すると、信濃は自ら「北海新聞」号外を印刷し、街頭に立って「号外っ、号外っ」と叫んで撒いた。赤い服装の男が撒く号外というので、「天下の号外屋」は一躍、町の人気者になり、「赤服」と呼ばれるようになった。
 信濃は赤い服装のまま船で青森に渡り、列車に乗り上京して、東郷平八郎など将軍の家々を訪れて勝利記念の揮毫をもらい、家宝とした。
 明治37年(1904)に日露戦争が起こり、勝利するが、多くの戦死者を出した。信濃は家々を回って義援金を募り、遺族に贈った。反面、幼児教育の必要性から、仲間に呼びかけて私立幼稚園を設立した。
 函館日々新聞は「信濃助治こそ天下の変人、奇人。万国奇人博覧会もしありせんか、まさに一等金牌の獲得者たる資格十分」と褒め讃えた。
 歳月が流れて信濃はいつしか亡くなった。地蔵寺墓地に赤い墓があるのが知れて、評判になった。大正9年(1920)1月の函館新聞に「赤心門を建て、墓石まで赤い」とあるので、死の何年か前に本人が立てたものらしい。
 それにしても本人と並んだ妻の戒名を見ていると、どんな暮らしだったのかと想像してしまう。よほど我慢強い“傑物”だったに違いないと思うと、なぜか笑みがこぼれた。いや、これは失礼。







 
2021年3月12日


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