老楼快悔 第94話 「鯡供養塔」のいわれ

老楼快悔 第94話 「鯡供養塔」のいわれ


 国道5号線を内浦湾沿いに南に走ると、森町市街をこえてほどなく「本茅部」という集落に着く。このあたりかつてニシンの豊漁に沸いた漁場だったという。JR石谷駅側に「鯡供養塔」が立っている。宝暦十年(1760)の建立というから、ざっと250年前だ。
 でもなぜ、ニシンの供養塔が立てられたのだろうか。
 古文書を読むと、ここは東蝦夷地の六カ場所の一つ、茅部場所と呼ばれ、多くの漁労者たちが集まり、ニシン漁に携わっていた。
 毎年春になるとニシンがどっと群来て、海面を白く濁した。ことに宝暦八、九年から十年にかけて凄まじいまでの大漁がつづいた。小林露竹著『鯡供養塔と茅部場所』によると「鯡の群れは厚く押し寄せ、戸板を立てても倒れぬほどだった」という。
 網を曳くたびに、ニシンが大量に浜辺に投げ出され、足の踏み場もないほどで、みるみる大きな山を築いていった。夕日が落ちる頃、人々の興奮はようやく醒めた。製造加工法もなく、せいぜい天日乾燥か身がきにするだけ。あとはカズノコを採るくらい。まだ畑の肥料にする技術もなかった。
 翌日も、また次の日も、浜辺に築かれたニシンの山は放置されたまま。漁労に携わる人たちに悔悟の念が募った。誰言うともなく、
「これを地中に埋めて塚にし、ニシンの霊を慰め、他年の恩恵に感謝の供養をしよう」
 と話がまとまり、本茅部に大きな穴を掘り、すでに悪臭を放ちだした哀れなニシンの群れを埋めていった。沖にニシンが群来ていたが、誰も見向きもせず、黙々と作業した。目に涙を浮かべる者もいたという。
 土で覆われる塚の上に、時を移さず楕円形の供養塔が建立された。これがいまも残る茅部の「鯡供養塔」である。ニシンの群来が幻となったいま、栄華に沸いた時代に、愚かな人間が犯してしまった”悔悟の碑”といえないこともない。
 ところでニシンは漢字で「鰊」と書くが、ここでは「鯡」である。前出の小林露竹は「明治以前の諸書は、鯡、と記されている」と書き、「ニシンは内地からくるコメと交換する唯一のものであり、従ってニシンは魚に非ず、として鯡と書いた」と述べている。
「鯡供養塔」の前に立って、往時を生きた人々を思いながら、文字の持つ重みを嚙みしめた。







 
2021年3月5日


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