老楼快悔 第93話 テレビ番組を作る
長く務めた新聞社から開局5年目のUHBへ出向したのは1979年(昭和54)3月1日。出社して最初に痛感したのは新聞もテレビもマスコミと呼ばれるが、「似て非なるもの」ということだった。
新聞記者はカメラを担いで現場へ行き、取材さえすれば記事になる。だがテレビはそうはいかない。ニュースは別だが、ドキュメントにしろドラマにしろ、制作して放送するのにスポンサーがつかなければ身動きもできないのだ。
恥ずかしい話だが、編成部長という肩書をもらったのに、そんなことさえ知らずにスタートした。だから周囲にどれほど迷惑をかけたものか。
着任早々、入手したばかりの昔の函館大火(1934年発生)のニュースフィルムを持ち込み、これでドキュメント番組を作ろうと提案した。放送日は大火の日に合わせて「3月23日」とした。製作期間はおよそ20日間しかない。
このフィルムは、戦前の北海タイムス(現北海道新聞)が読者向けのニュース映画として撮影したもの。すでに40数年が経過しており、保存状態も悪く、使えるかもわからず、急ぎ修復作業にかかっても2週間はかかるという。それを待って現地に取材に入るとして、編集作業を考慮すると必要な場面の撮影にかけられる日数は3日しかない。その間に資料を集め、インタビューの対象者を探して交渉したり、構成台本のあら筋をまとめねばならない。そして肝心の作品につくスポンサーを探さねばならない。
そんな複雑なものとも知らない私は、上京してフジテレビ系列の編成部長会に出席し、挨拶回りをして帰社して初めて大慌てに慌てた。制作スタッフは取材のため函館に入っていた。その情報をもとに、フィルムが修復されると見込んで、30分間の構成台本を書いた。レポーターは私に決めた。
修復されたフィルムが東京から送られてきた。放送日まで残り1週間。制作スタッフの本隊とともに函館へ赴き、大火の現場跡や犠牲者を奉る慰霊堂などのレポート場面を撮影し、大火を体験した人々や消火に尽力した元消防士、慰霊の和讃を収録したレコードを持つ住職などを次々にインタビューした。
帰札して編集作業が始まったが、この段階になっても古いフィルムを撮影した人物は特定できないまま。だが肝心のスポンサーが決まった。営業部の若い部員が急ぎ交渉して成就させたという。
こうして「ドキュメント函館大火」は計画通り放映された。わずか30分のドキュメントだが、新聞社とは違う切迫した作業の凄さを体感させられた。これがUHBにおけるドキュメント作品の第1号だった。
2021年2月26日
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