老楼快悔 第90話 中島三郎助の末裔の名前

老楼快悔 第90話 中島三郎助の末裔の名前


 毎年6月25日、函館市の函館山麓に建つ「碧血碑」前で碧血祭が催される。この日は箱館戦争で戦死した中島三郎助父子が戦死した旧暦5月16日にあたる。
 祭りには全国各地から、旧幕府軍の末裔や関係者らが碑前に集まり、霊を慰める。
 もう5、6年も前になるが、北海道新聞函館支社の協力で、祭りの始まる前、末裔の方々に集まっていただき、座談会を催した。出席者は榎本武揚の曾孫、榎本隆充さん=東京都、土方歳三の甥の玄孫、土方愛さん=東京都日野市、中島三郎助の曾孫、中島恒英さん=神奈川県海老名市、小杉雅之進の曾孫、小杉伸一さん=神奈川県横浜市、それに旧幕軍将兵の遺体を一夜で片づけた函館の侠客、柳川熊吉の5代目、柳川厚史さん=函館市。司会は私が務めた。
 榎本はなぜ無謀ともいえる蝦夷地への脱走を試み、戦いに挑んだのか、歳三はなぜ死地へ急いだのかなど、思い思いに語り合ってもらった。
 榎本さんは「武揚は戦うつもりはなく、蝦夷地を開拓して失業武士を養うつもりだった。一時的だが蝦夷共和国は存在した」と述べた。
 土方さんは「歳三は最後まで前を向いて戦った。悔いはなかったはず」、小杉さんは絵や文が得意だった雅之進が『麦叢録』を書いたのは「最初に書いた作品を盗作されたのに怒り、改めて出版したため」と述べた。柳川さんは「熊吉は、義侠心から旧幕軍戦死者を葬った」とその心情を話した。
 三郎助の三男、與曽八を祖父に持つ中島恒英さんは「先祖は江戸を出る時から死を覚悟していた」と述べた。
 座談が終わった後、中島さんに気になっていた名前について訊ねた。
 実は、曾祖父三郎助とともに戦死した長男恒太朗、次男英次郎の兄弟の名前の頭文字をつけているのだった。
「ええ、父から亡き大叔父の名をもらってつけたと聞かされて育ちました。恒と英を背負って生きている、そんな思いです」
 中島さんは碧血祭に出席したあと、函館の町を歩いた。先祖が戦った最期の地、千代ヶ岡台場跡、中島姓に由来する函館市の中島町を行く。
「先祖の息吹が感じられて身が引き締まる思いでした」という話に、末裔だけが抱く熱いものを感じた。
 コロナ禍の今年もまた様々な思いを込めて「碧血祭」が巡ってくる。














 
2021年2月5日


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