老楼快悔 第88話 「札幌市」に「札幌村」があった?

老楼快悔 第88話 「札幌市」に「札幌村」があった?


 札幌には「札幌市」と「札幌村」が存在したという話を聞いたら、驚かれる人が多かろう。でも間違いなく、そう呼ばれていた時期があったとは。
 蝦夷地が北海道と改まり、明治2年(1869)11月、開拓判官の島義勇は石狩大府を建設するため、札幌に足を踏み入れた。鬱蒼とした平野に大友堀という人工川が流れているのに着目し、大友堀の流れと直角に東西に道路を設け、畔(ほとり)の一点を基点と定め、大府の建設工事を始めた。基点となったのが現在の南1条西1丁目である。
 この大友堀を作ったのが大友亀太郎という旧幕府の役人だった。亀太郎は明治維新前の慶応2年(1866)、蝦夷地開墾掛を命じられ、木古内、七飯を開墾し、箱館から石狩に入って御手作場を開設した。現在の東区北13条東16丁目付近に当たる。
 亀太郎は作業員を督励して開墾するかたわら、農業用水を確保しようと、4キロほど上手にある豊平川の支流から水を引く人工堀を僅かな期間で完成させた。これが大友堀である。
 義勇はその力量に惚れ込み、亀太郎に「開拓使に勤めるように」と誘ったが応ぜず、自分が開墾した苗穂を開拓使に引き渡して去っていく。義勇もまた志半ばでこの地を後にする。
 亀太郎が去った後の御手作場周辺は札幌村と呼ばれ、石狩平野を代表する農業地帯として発展していく。
 石狩大府の庁舎が建つ一帯は、明治4年(1871)5月、本庁舎が完成し、東京にあった本庁舎の業務を移したこの頃から、札幌本府と呼ばれるようになる。周辺にはすでに札幌村をはじめ、円山、平岸、白石、豊平、琴似、篠路……などの小さな集落が数多く誕生していた。
 こうして本府は札幌の中心地の呼称となった。札幌村は「われこそ札幌の本家なり」とばかり、ずっと札幌村を名乗り続けた。昭和30年(1955)に札幌市と合併してからも呼称は変えなかったが、やがて「元村」から「元町」へと変化していった。
 しかし札幌村の誇りは高く、亀太郎の文献を筆頭に札幌村の開拓を伝える資料をまとめた「札幌村郷土資料館」をはじめ、「札幌村神社」など札幌村を名乗る場所が現存する。タマネギの名産地で、「札幌黄」の名もこれがバックボーンになっている。









 
2021年1月22日


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