老楼快悔 第83話 日勝さんの「馬」の絵

老楼快悔 第83話 日勝さんの「馬」の絵


 北海道近代美術館で開会中の「神田日勝展」に足を運んだ。描きかけの「馬」の絵を見ながら、遠き日の日勝さんを思い出していた。
 日勝さんの絵に初めて触れたのは1956年(昭和31年)、帯広で新聞記者をしていた時だった。その日も編集部長から「暇なら平原社展覧会を見てこい」といわれ、出かけた。一番若かったので、何でも勉強になる、という親心からだったのだろう。
 平原社展の会場に赴くと、広い壁面に大きな油絵がずらりと並んでいた。主催者だという芸術家風の男性に話を聞き、会場の写真を何カットか撮影した。
 そこで日勝さんの「痩馬」を見た。そばに「朝日奨励賞」と紙片が貼られていた。でも異様な印象を抱いた。なぜこんな痩せた馬を描いたのだろう。馬ならいくらでも立派なのがいるではないか。
 わが家には「カツヒメ」というサラブレッドの馬がいた。父はその馬を札幌競馬に出場させ、2位になったが、翌日のレースでスタート直後に転倒し、即死した。わずか数年前の話だ。涙を堪えていた父がその直後に突然死んだ。馬のことになると亡き父の記憶が蘇る。
 日勝さんは翌年、また平原社展に「馬」を出品し、こんどは「平原社賞」を受賞した。展覧会の日程が終わりに近い日、会場に出かけた。作品「馬」の前に立つ。顔見知りの主催者の一人が、「日勝さんはあそこにいるよ」と指さした。
 促されて日勝さんに会い、挨拶を交わした。日勝さんはその時、19歳。私より4歳下。素朴な感じの若者だった。どんな会話を交わしたのか、いまとなっては定かでないが、それ以来、気になる存在になった。
 翌年、私は釧路に転勤になったが、日勝さんの消息は確実に聞こえてきた。全道展で「家」が初入選。独立展で「人」が初入選。同展で「死馬」が入選……。日勝さんの描くものが、底辺で生きるものの声なき叫びだと知るのは、この頃のことだ。
 いつか機会を見て再会したい、と思うようになったが、そんな矢先に訃報が飛び込んできた。1970年(昭和45)8月25日、死去、享年32。一期一会という言葉があるが、日勝さんとは文字通り、ただ一度の出会いに終わった。
 十勝の鹿追町の神田日勝記念美術館に赴き、日勝さんの妻君とも会い、町を歩くなどして書き上げたのが、北海道科学文化協会の「北国に光を掲げた人々」の『若き永遠のリアリスト神田日勝の生涯』(2019年秋刊)。出会いから62年、死去から50年が経過していた。

 いま、また展示された描きかけの「馬」を観ている。この絵を描いているうち病に襲われ亡くなった。彼がもし生きていたら、この作品は“誕生”しなかったのか、と不思議な思いで、――観ている。










 
2020年12月11日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ